卑怯な弁解

 哲也は両手を広げ、そこに頭を沈めた。爪を立てて、自分の頭をかきむしる。その姿を、美葉は冷めた気持ちで見つめていた。数分そうやっていたが、ゼンマイが切れたように手を止めて、顔を上げずに言葉を紡ぎ出した。


「……見捨てたつもりは無かった……。噛み合わなかったんだ。時間のやりくりが出来なかったんだ……」

 呻くような不鮮明な言葉を吐いた後、哲也は僅かに顔を浮かせた。


「北大で講師をしていた頃は給料が安くて、早く出世をして妻子に楽な暮らしをさせたいという野望があった。その一方で、自分の研究がもっとダイレクトに人の役に立てないかと模索していた。物理を人体科学に応用し、障害者が失った機能を補えたらいいのに。そんな夢を抱いていた。今の研究の原点となるような研究室に呼ばれた時は嬉しかった。助教授となり、研究者としても認められたと。沙月も喜んで東京に付いて来てくれた。私は研究以外のことは何も出来なくて、沙月は陰日向となり支えてくれていた。だが、環境が変わったことで沙月は不眠に悩むようになった」


 父の言葉に自分の記憶を重ねようとするように、正人の視線がくうを彷徨う。


「アメリカではもっとその研究が進んでいると聞いていた。その研究室に、一年だけ入れて貰えることになった。当然、二人を連れて行くつもりだった。正人にとっても、まだ脳が柔軟な時期に異国の文化に触れるのが良い教育になると思った。しかし、沙月は日本に残ると言った。言葉や風習が分からなくて不安だ。一年だけなのだから待っていると……。しかし、一年後、正式に職員として働かないかと誘われた。今度こそ二人を呼び寄せよう。そう思ったが、沙月は正人の環境を変えたくないといい、日本に残る選択をした。今思えば、鬱病で外国に順応できるような状態では無かったのだろう。その事に、気付かなかった」


 哲也はのろのろと首を横に振った。


「連絡をしようと思っても、研究にのめり込み時間を忘れてしまって、上手く行かなかった。日本とアメリカの時差に翻弄され、はっと気付いたときには日本の深夜だという事ばかりが続いた」

 哲也は大きな溜息をついた。


「ある日、沙月から電話が掛かってきた。正人が不登校気味なのだと。彼女がどうして良いのか分からない様子だったので、日本に帰った。そして、学校に行かずに家にいる正人を見付けて、ついカッとして頭ごなしに怒ってしまった……」


 申し訳なさそうに言う哲也から、正人は顔を背けた。哲也は大きく息を吐き出して、言葉を続ける。


「……あの日、沙月から離婚を切り出された。『子供の教育も上手く出来ないし、自分は何の役にも立たない。正人は頭がいいからすぐにアメリカに順応できるはずだし、きっとそちらの方が性に合っているだろう。正人を連れて行って欲しい』と。私は勿論反対した。沙月がいてくれるだけでいいのだと伝えて、思いとどまって貰った。離婚の話は勿論無しになり、私はアメリカに帰って研究を続けた。今度こそ連絡を頻繁に取ろうと決意をしたが、やはり上手く行かず……。そして、あの日を迎えた……」


 苦渋に満ちた表情を哲也は浮かべ、苦しげな声を吐き出した。正人もまた、苦しげに顔を歪める。


 この人は、卑怯だ。

 美葉の腹に怒りが込み上げる。


 セルフコントロールが出来なくて大切な事を忘れてしまうのは、正人も同じだ。自身の身に覚えのあることを理由にされたら、正人が怒れないでは無いか。


 それに。


 彼は最も都合の悪いことを、隠している。彼は、自分が悪人にならないように、真実をねじ曲げている。


 激しい音が、室内に響いた。同時に、ガシャンとティーカップが音を立てた。両方の手の平が、ジンジンと痛む。


 力一杯、テーブルを叩いたせいだった。


「……卑怯者!」

 切りつけるようにそう叫び、驚いて目を見開いている哲也を美葉は睨み付けた。

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