父への感情
昔、正人がドームキャベツを作ってくれた。鍋一杯のキャベツを見て驚く美葉と和夫に、正人は嬉しそうな、得意顔を向けていた。
『 ……今思うと、ドームキャベツはお母さんが一番好きだった食べ物では無く、僕が一番食べたかったお母さんの手料理だったような気がします』
あの日正人はそう言ったけれど、本当はもっと切実な願いが込められていたのだ。溢れた感情で、美葉は目の奥が熱くなるのを感じた。
「元気になって欲しい。そう願うのは、お母さんを追い詰めるんだと知りました。求めてはいけないんだと、悟りました。部屋に閉じこもるお母さんに話しかけるのが怖くて。でも、ある日突然いなくなってしまうんじゃないかと思って、それも怖くて。よくお母さんの部屋のドアにもたれて、耳を澄ませていました。こんなにお母さんが苦しいのに、お父さんはどうして助けに来ないのだろうって、思っていました。……見捨てられたんだと思いました。怖かったんです。怖かったんです。怖かったんです。誰も助けてくれなくて……。求めることも、許されなくて、怖かったんですよ……」
正人は、泣いていなかった。感情をどこかに落としてしまったような無機質な顔を上げて哲也を見た。いつも柔らかな光をたたえる瞳は、真っ黒で底のない洞穴のようだった。
「学校では虐められて、心が段々苦しくなりました。学校をサボって公園の遊具に隠れて、夕方まで時間を潰すようになりました。でもいつの間にかそれも面倒になって、学校に行った振りをして自分の部屋に隠れていました。そんな時、突然帰ってきたお父さんに怒られました。『逃げてはいけない』って、怒鳴られました」
哲也の眉が、僅かに揺れた。哲也もまた表情を無くし、青ざめた顔をテーブルに向けていた。
「それから、学校には休まず行くようになりました。どんなに虐められても、聞こえないように、感じないように、勉強に集中していました。勉強と、本から知識を得ることに、意識を集中していました。苦しかったけれど、成績は良くなりました。どんな進路も思いのまま選べるだろうと、先生から言われました。その言葉に、僕は一つの光を見付けました」
正人の唇の端が、異様な角度で持ち上がった。
「学者になろうと思いました。お母さんがお父さんのことを、『人の役に立つ研究をしている立派な学者さん』と話していたのを思い出したんです。お母さんは誇らしげでした。同じ学者に、自分もなろうと思いました。きっと、お母さんも喜んでくれる。『息子は人の役に立つ研究をしている立派な学者さん』と自慢して貰えるかも知れない。そして何より」
正人が言葉を止める。うっと嘔吐くような声を飲み込んだのが、美葉の耳には聞こえた。
「……尊敬するお父さんと同じ職に就くことを、夢見たんです」
抑揚の無い声が殆ど動かさない正人の唇から吐き出される。
「僕は、お父さんのことが、大好きだったんです」
哲也の顔から、血の気が引いていく。まるで今、死刑執行の宣告を受けた受刑者のように。
「あんな仕打ちをされても、僕はまだ、お父さんの事が、大好きだったんですよ」
深い洞穴のような正人の瞳が、哲也を射る。
「お父さんはどうして、僕たちを見捨てたんですか……」
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