あの誕生日を覚えていますか
正人が父親のために選んだケーキはモンブランだった。丸いタルトの上に糸のようなマロンクリームが螺旋を描き、飴色のマロンと真四角のチョコレートプレートを乗せている。自分の為に選んだ苺のショートケーキは正三角形で、クリームの飾りの上に大ぶりの苺が偉そうに乗っていた。
ケーキの横に紅茶を添える。白くふわりと浮いて消えて行く湯気を見つめる。空気が重たいけれど、湯気はふわりと柔らかく立ち上っている。息苦しい気持ちのまま、美葉は二人のどちらかが口を開くのを待った。もしかしたら、紅茶が冷めてしまってもこのままじっとしていることになるかも知れない。けれど、これは二人の問題だからと、美葉は辛抱強く待つ。
正人の指が、僅かに動いた。白い指先が、それよりも白い食器に触れた。
「僕の、九歳の誕生日の事を、覚えていますか……」
とても小さな声で正人が問う。紅茶の湯気が揺れないくらい、小さな声だ。哲也は恐る恐る顔を上げたが、視線は正人とは違う場所を彷徨っている。
「九歳の、誕生日……」
語尾には小さなクエスチョンマークがついていた。正人の眉が微かに動き、寂しそうに口元が緩んだ。
「札幌で最後に祝って貰った誕生日です。……僕も忘れていて、さっき美葉さんと札幌にいた頃の話をしていて、思い出しました」
前触れも無く溢れた涙の理由を、聞いた気がした。哲也は記憶を辿るように額に指を這わせる。そこに、深く皺が刻まれている。
「お母さんが、ドームキャベツを作ってくれました。最初は凄くびっくりしました。キャベツを丸ごと煮込んだのかと思ったから。でも、中にはハンバーグの種が入っていました。コンソメとトマトの風味が染み込んだ、優しい味でした。……覚えて、いませんか……」
正人が哲也に視線を向けた。願うような視線に哲也は瞑目し、小さく頷く。
「……そうだね。そんなことがあった。私と正人が驚いたのを見て、沙月が嬉しそうに笑っていた……」
哲也は、懐かしそうに目を細めた。正人の顔に小さな安堵がよぎり、悲哀の表情に溶けて消えた。正人は手を膝に置き、ぎゅうっと固く握りしめた。力を込めすぎたからだろうか、指先が震えている。美葉は思わずその手の上に、自分の手を重ねた。その下で、小さな虫がうねるようにピクリと手の甲が揺れた。
「あの日は、とても幸せでした。三人で囲んだ食卓には、特別な料理が並んでいて、『おいしいね』って笑って食べて。お父さんがケーキを買ってきてくれました。僕の名前と、誕生日を祝う言葉がチョコレートのプレートに書いてあった。九本のロウソクを消すときの誇らしさは、まだ胸に残っています……」
団地の一室の、ごく当たり前に繰り広げられた誕生日を祝う風景。そこに、幼い正人と若き学者の哲也、そして写真の姿そのままの母親を当てはめる。
幸せ溢れる光景の筈なのに、心臓を掴まれたような痛みが走った。
「……あの日に、帰りたかったんです。ずっと。お母さんに元気が無くなって、食欲も無くなって、死んでしまうんじゃ無いかと思って怖かったんです。もしかしたら、あの日食べたドームキャベツをもう一度食べたら、元気になるかも知れない。あの日の幸せな気持ちが蘇るのかも知れない。……ドームキャベツには魔法の力があると、盲目的に信じていました。だから、作り方を調べて、毎日毎日、作りました。お母さんが元気にならないのは、作り方が下手なんだ。味付けが違うんだ。煮込む時間が足りないんだ……。毎日、毎日、毎日、毎日……」
正人の頬が、片側だけ歪んだ。
「『今度は違うのを食べよう』って、お母さんが言ったと……。記憶を、作り替えていたんです。誕生日のことを思い出したら、芋づる式にね、全部思い出しました」
歪んだ頬が、ピクピクと痙攣した。大量に飲み込んだ毒が正人を苦しめていて、必死にそれを吐き出そうとしているように見える。でもそれは簡単では無くて、鳩尾や肺や喉元に引っかかり、痛めつけ、呼吸を妨げる。多分、飲み込んでしまった方が今は楽なのだ。このまま永遠にじわじわと真綿で首を絞めるように宿主を苦しめ続けるけれど、吐き出そうとすれば死ぬほど苦しい。
喘ぐような息を吐いて、正人の喉が震えた。
「『もうやめて』。……『もうやめて』って、本当はそう言ったんです……」
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