ケーキを顔にぶつけちゃえ

「涙の水分なんてたかが知れているんだから、そんなことで人間は干からびたりしません」


 札幌での思い出話は突然途絶え、正人はボロボロと泣き出した。東京に来てからずっと涙を流しっぱなしだから、このままでは干からびてしまう。涙を拭き終えた正人に美葉が冗談めかして言うと、正人は大真面目にそう言った。それから、美葉が心配しているのだと気付いたらしく、すいませんと呟いた。


 涙を拭いた正人はランチを綺麗に平らげた。正人が泣き止むのを待っていたら、涙が胃袋に流れ込んだように、満腹になってしまった。何とか頑張ったけれど、シチューもパンも半分ほど残してしまった。食欲がない事を、今度は正人に心配されてしまう。


 色んな事を考えすぎて、こめかみが痛む。この状態が続いたら、過呼吸を起こしてしまいそうだ。今は正人にとって人生で最も大事な場面なのだ。そんな醜態をさらしてはならない。


 しゃんと背を伸ばしてから、正人の手を求める。手の甲同士が触れあうと、察したように正人が美葉の手を取った。正人の手は温かくて、今無理に入れた身体の力をそっとほどいた。


 街路樹の桜の木が、赤く染まっていた。鮮烈な紅葉の赤も美しいけれど、桜の柔らかい朱色もいいものだと思う。風が吹き、はらりと葉が落ちる。日の光を反射しながら、踊るように落ちて行く。


「お父さんと、話をしよう」

 葉が落ちるのを見届けてから、美葉は言った。正人の手に力がこもる。怒ったかな。困らせたかな。すぐに発言を撤回したくなった。恐れを押して正人を見上げると、すねた子供のような顔をしていた。


「……分かっているんです。でも、何を話したらいいのか、分からなくて……」

 子供の顔のまま、シュンと俯く。


 怒りをぶつけようと思っていないことに美葉は驚いた。父親の話をする時、正人はいつも憮然として、言葉を吐き捨てる。そこには確かに怒りがある。当然の怒りだと思う。それをぶつければいいのだ。正人には、その権利がある。


「怒ればいいんだよ」

 正人は人を傷つけない。それがたとえ、自分をズタズタに切り裂いた人であれ。いつも愛しいと感じるその優しさに、腹が立った。


「怒鳴りつけてやればいいんだよ。頭から水をぶっかけてやってもいいよ」

 眼前に、おしゃれなケーキ屋が見えた。美葉はそこを指さして言った。

「ホールケーキを顔にぶつけてやればいい」

「勿体ないですよ」


 正人がうっすらと笑いを含んだ声で言う。言い終えてから、美葉と繋ぐ手を軽く振った。


「ケーキ、買って帰りましょうか。……勿論、ぶつけるためじゃないですよ。美味しくいただくためです」

「ぶつけないの?」

「ぶつけません。食べ物を粗末にしたらいけません」

 正人が力強く一歩を踏み出した。


 店には、宝石のように色とりどりのショートケーキが並んでいた。正人は迷わずモンブランと苺のショートケーキを選んだ。美葉は悩みに悩んだ末、ミックスベリーのムースを注文した。三つのケーキを受け取って、正人はまた少し泣きそうな顔をした。


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