九歳の誕生日

 「正人さんが育った町を歩いてみたい」と美葉が言ったので、二人で手を繋いで散歩をした。


記憶を辿るよりも先に足が動くのが不思議だった。辿り着いた小学校は廃校になっていて、よく意図の分からない交流施設になっていた。今自分がいる小学校に比べてかなり大きく、グラウンドも広い。鉄棒やブランコなどの遊具は残されているものの、立ち入り禁止の黄色いロープが張り巡らされていた。


 実家の玄関をくぐってから、正人は奇妙な感覚に襲われていた。


 ローカも、階段も、自分の部屋も、リビングも、母の部屋も、全てが嘗て自分が過ごし育った場所だと肌では感じる。脳細胞のシナプスが神経伝達物質をやり取りするように、家中に滞留している粒子を毛穴が受け取り、「懐かしい」という感情を喚起する。


 しかし、具体的なエピソードは何一つ思い出せない。


 この家で過ごしたのはただの十年ではない。少年から思春期を経て、大人の一歩手前まで成長を刻んだ家なのだ。大人へ向かう心と体の変化に戸惑い、将来の自分に不安を抱き、希望を探し、高校と大学受験の時期を過ごした家なのだ。それなのに、自分がこの家で何かをしたという具体的な思い出が、どんなに脳みそをかき回しても見つからない。見つかるのは混沌とした感情だ。孤独とか、不安とか、悲しみとか、怒りとか、諦めとか、絶望とか。そういった負の感情がポタージュスープのようにドロドロとした液体になって存在している。


「お昼ご飯の時間だね」

 美葉の言葉で、正人は我に返った。腕時計を見ると、正午を少し過ぎたところだった。「日替わりランチ」の幟が立つカフェが丁度よく目に付いた。と言うよりも、それを見て美葉が先ほどの言葉を言ったようだ。


 赤いギンガムチェックのテーブルクロスに硝子のランプシェードがよく似合う、レトロな店だった。正人はメニューの写真を見てランチセットを頼んだ。ハンバーグと聞いただけで胃が活発に動いた。夕べは食事が喉を通らなかったし、朝食は食べそびれた。美葉は胃の辺りを摩り難しい顔をして随分長く悩んだ末、クリームシチューを注文した。そう言えば、最近胃の調子が良くないと言って、食事を残すことが増えた気がする。


「正人さんが東京に来たのは、何歳の時だっけ」

 クリームシチューをチビチビと啜りながら美葉が言う。正人は記憶を辿った。


「小学校四年生からですね、東京の小学校に通い始めたのは」

「それまでは、札幌だったよね」

「そうです」


 正人は頷き、箸でハンバーグを割り、口に入れる。ミンチの粒が大きく、肉の粘りと旨味を感じた。ランチが千五百円もするので驚いたが、丁寧に手作りしている上質な味で、納得がいった。東京は家賃が高いから、物価が高くて当然なのだろう。


「そう言えば、札幌時代の話をあんまり聞いたこと無いね。何区だったの?」

「南区です」


 昔話自体、避けてきた。話をすれば場が暗くなるのが分かっていたからだ。虐められていて友達はいなかったし、母は病気だったし、自殺までしているし。そんな話を聞いたところで誰も楽しい思いはしない。そう思いながら札幌に居た頃の記憶を想起しようとし、これもまた曖昧になっていることに気付いた。


「南区なんだ。札幌だから都会だと思ってたけど、熊が住んでる田舎だね」

「そうですね。敷地内に林があるような、自然豊かな学校でした。環境を使った体験型の学習スタイルで……今思うと、ちょっと変わった学校だったかも知れません」


 言葉に出すと、林の木々を見上げた光景が鮮明に蘇った。林道を歩き、幹にいる虫を教師が捕まえてひっくり返し、みんなで観察した。もう名前も思い出せないし、顔も覚えていないが、思い出の級友はみんな大きな口を開けて笑っている。その中で、自分も同じ顔をして笑っていた。


「楽しい学校でした。友達も沢山いて……」

 行き場を失っていた水が水路を得たように、次々と思い出が蘇ってくる。


「……先生は僕のことを『トットちゃんみたいな子』って言ってました。僕には、授業中座っている必要性が分からなかったんです。動いていた方が集中できるし、問題もすらすら解けるし、漢字も覚えられる。それなのに、どうしてじっと座ってなきゃいけないのか。分からないから、授業中にいつもうろうろと立ち歩いていました。そしたら、先生が教えてくれたんです。『この世界にはルールがあって、それはみんなが安心して生きていくために守らなければいけないことなんだ。授業中は静かにし、じっと座っている。これも、ルールなんだよ。慣れるまで窮屈な気持ちになるかも知れないけど、絶対出来るようになるからがんばってみよう』。僕が人と違うことをする度に、そうやって『何故必要なのか』を噛み砕いて教えてくれました。納得できれば、僕も頑張ることができました。……やっぱり、札幌の小学校は特殊だったんだな……。東京の小学校では、頭ごなしに怒られてしまうので、凄く戸惑いました……」

「そっか……」

 美葉は頷いて目を細めた。


「そんな小学校、いいね。いいところで育ったんだね、正人さん。家は、学校の近くだったの?」

「家は……」

 巨大な集合住宅の前で友達と手を降る光景を思い出す。


「団地でしたね。オリンピックの時に出来たんだよって、誰かから聞いた気がします」

「五輪団地! 札幌オリンピックの時に建てられたとこだ」

 美葉は両手をぽんと叩いた。

「建物の外壁に、雪の結晶が描いてあったでしょ? 水色と白の」

 美葉の言葉で、ベージュの壁に描いていた雪の結晶を思い出し、正人は嬉しくなって頷いた。


「僕の部屋は凄く狭くて、夜は一人で寝るのが怖くてよくお母さんの布団に潜り込んでいました。殆どリビングですごしていました。テレビを見たり、宿題をしたりしてて……。お母さんはよく、スケッチブックに絵を描いていました」


 そうだ、と正人は目を閉じた。


 宿題をしていると、お母さんが近くに座ってスケッチブックを広げる。自分の絵を描いていると分かるから、緊張する。勉強の方に集中して、恥ずかしい気持ちを誤魔化すのだ。宿題が終わったら、お母さんは描いた絵を見せてくれた。


『はい。頑張っていた今日の正人君』


 お母さんは、綺麗な長い黒髪を後ろで一つに束ねてにっこりと微笑んでいた。コトコトと鍋が小さな音を立てていた。美味しそうな匂いが部屋を満たす。外は雪が降っていたけれど、部屋の中はとても温かかった。


 玄関のドアが開いて、父が帰ってきた。白くて大きな箱を持っている。嬉しい気持ちが込み上げて抑えきれず、ぴょんぴょんと跳びはねて父親に抱きついた。


『お父さんが手を洗って、着替えてきたら始めましょうね』


 その声を聞いて、身体を左右に揺らした。ワクワクして、じっとしていられなかった。テーブルの上に、いつもよりも豪華なサラダやコーンスープが並べられていった。


『ジャーン!』


 お母さんが、大きな皿を両手に持ってやって来た。テーブルの上に得意げに置いたのは、巨大なキャベツだった。


『なんだい? これは』

 父親が首を捻ると、お母さんはふふふ、と笑って包丁でキャベツを割った。キャベツの中にはハンバーグが詰まっていた。


『ドームキャベツでーす』


 お母さんが得意げに言う。トマトスープが染み込んだドームキャベツは、それまで食べたどんな料理にも無い特別な味がした。


父親が白い箱を開けた。中には、丸く大きなケーキが入っていた。生クリームの飾りに苺が乗っている。真ん中にチョコレートのプレートが飾られていて、「正人たんじょうびおめでとう」とホワイトチョコレートで書かれていた。


ロウソクは九本。


電気を消すと、ロウソクの炎が輝きを増した。オレンジ色の光がお父さんの顔とお母さんの顔を、浮かび上がらせる。二人は笑顔を浮かべて、正人に視線を向けている。温かな愛に溢れた眼差しを、向けている。


 正人は大きく息を吸い込んで、揺らめく炎を、吹き消した。

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