切り株に誓う

 玄関先で隼人を見送ったのは、きっちり一時間後だった。彼は正人に会うために午前中の仕事を休んだのだそうだ。だから、午後からの仕事に向かうため、名残惜しそうに話を区切った。


 研究の事や最近出来た彼女の話など、隼人の近況を聞く正人の笑顔は晴れやかだった。そして、家具職人になったと聞いた時の余りの驚きぶりに声を上げて笑っていた。来年の連休に必ず北海道を訪れると隼人は約束し、固い握手を交わして二人は別れた。


 隼人が去った後も、正人は赤く染まる満天星を見つめていた。その横顔からは笑顔が消えていた。感情を出来るだけ遠ざけようとしているようだ。空は晴れ、十二月の割には温かい日差しが正人の頬を白く照らしている。乾いた風が、満点星の枝を揺らす。小さな深紅の玉を飾り付けた針金のようだ。


「美葉さん……」

 正人が名を呼んだ。美葉が視線を向けると、正人の瞳は遙か遠くを見つめていた。


「松の木は、どうなっていますか」


 美葉は、一瞬眉を寄せた。正人はそこを見る勇気を持てず、視線を避けていたのだと気付く。


「……もう、無いんだよ」

 美葉は、丁寧に答えた。


「孝造さんがね、造園業者に頼んで切ってもらったんだって。お母さんが亡くなって、すぐ後に。もしも、正人さんが東京に戻りたくなった時、松の木を見たら辛い想いをするだろうからって」

「そう、だったんですか……」


 乾いた声で正人は呟き、きゅっと目を閉じた。目を閉じたまま、身体を左側に向ける。今は切り株となった松の木がある方向だ。美葉は、正人の腕をそっと抱きしめた。


「行ってみる?」


 目を閉じたまま、正人は頷いた。美葉は、用心深く正人を先導した。雑草が生い茂っており、かき分けるようにして進む。切り株は腕で抱えるほどの大きさだった。美葉は正人の腕をほどき、そこに跪いてから正人の手を握った。美葉の横に正人も膝をつく。


 細く長い息を吐き、正人は瞼を上げた。その瞼が、大きく痙攣した。正人の身体が硬直し、時を経て命の気配を失った切り株を見つめている。


 正人が、手を伸ばした。切り株の上に、震える手を置く。そこにあるはずの無いぬくもりを探すように、ゆっくりと手を這わせる。ポトリと雫が落ちた。それは、一瞬で年輪に吸い込まれていった。


「お母さん……」


 呻くように正人が言った。そのまま、切り株を覆うように身体を丸める。ボタボタと雨のように、切り株に涙が落ちる。


「約束を破って、ごめんなさい……。一人で逝かせてしまって、ごめんなさい……」


 正人の声はむせび、悲鳴のような嗚咽に変わる。美葉は正人の背を抱きしめた。絶望の中一人で死にゆく女性の姿を思い、その苦しかった人生を思い、涙が込み上げてくる。彼女は何故、死ななければならなかったのだろう。どうにかして彼女を、この親子を誰かが救うことは出来なかったのだろうかと、唇を噛む。


 死にゆく彼女は、残された正人を案じたのでは無いだろうか。いや、今も案じているのでは無いだろうか。自分を思って泣いている正人を見て、悔いているのでは無いだろうか。


 いつか和夫が、死者は案外近くにいるのではないかと言った。見えないガラス窓の向こうから、いつでも残していった者を見つめているのではないだろうかと。美葉も自分の母が傍にいると胸に念じ、支えられた事が何度もあった。


 美葉は正人の背から手を離し、鼻を啜って居住まいを正した。

 両手を、切り株の上に置く。


「正人さんの、お母さん」


 そこにいる人に話しかけるように呼びかける。正人が息をつき、美葉を見つめた。


「初めまして、谷口美葉と言います。正人さんとお付き合いしています。いつか結婚して、家庭を築きたいって、思っています」


 息を吸って、笑顔を作り、頭を下げた。


「私のお母さんが、そっちにいるんです。もし見付けたら、仲良くしてやって下さいね。きっと、気が合うと思うんです。だって、私と正人さん、ラブラブなんですから。そのお母さん同士もきっと、めっちゃくちゃ仲良くなれると、思うんです」

 へへ、と笑った。切り株に手の熱が伝わり、木材の持つ温かさが手の平に返ってくる。


「正人さんを、この世に産んでくださって、ありがとうございます。私、正人さんに出会えたこと、凄く幸運だと思っています。この先も色々あると思うけど、二人で乗り越えて、いつまでもラブラブでハッピーでいます。だから、見守っていて下さいね……」


 切り株を撫でる。すべすべとした年輪の感触を、忘れないでいようと誓う。


 正人が大きく息を吐き、美葉の手に自分の手を重ねた。

 

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