解剖学の教科書

 哲也の返事を聞いた後、強い吐き気をもよおしトイレに駆け込んだ。しかし、何度か空嘔吐きを繰り返しただけで何も出てこなかった。ずっと緊張状態で、睡眠もあまり取っていない。こういう時、どうしても交感神経優位になって体調を崩してしまう。気をつけなければ。今は正人を支えるのだ。自分がしっかりしなければ。そう思い、深呼吸を繰り返した。


部屋に戻ると、正人は身なりを整えて膝の上に本を広げていた。正人の姿を見たら力が抜け、視界に黒い斑点が浮んだ。崩れるように隣に腰を下ろすと、正人が両手で身体を受け止めてくれた。正人の膝から本が滑り落ち、ゴトンと重たい音を立てた。


「大丈夫ですか? 顔色が悪いです」

 立ちくらみはすぐに治まり、美葉は首を横に振る。


「大丈夫。空きっ腹にお酒を飲んだせいかな。ちょっと胃の調子が悪いの」

「横になって、少し眠って下さい。出発の日も、余り眠れなかったと言ってたじゃないですか」

「平気。私寝不足に強いんだから」


 美葉は笑って、正人の足元にある本を拾う。頭を下げるとまた少しクラクラとしたが、すぐに落ち着いた。疲労感はある。だが、今は気が張っていて眠れそうに無かった。


 硬く厚い表紙の、威厳を纏った本だった。焦げ茶色の背表紙に「解剖学Ⅰ」と書いてある。首を傾げて本を開くと、大腿骨が片面一杯に描かれていた。鉛筆のスケッチ画らしいが、天辺にある球体や、その下に斜めに伸びるくびれや、それらを乗せている皿のようなもの、すっと伸びた場所から下部の扇形に二つの突起がある様まで詳細に描かれている。あちらこちらから傍線が伸び、「大腿骨窩」「大腿骨頭」などと名称が書かれ、その下に「Fovea capitis femoris」「capitis femoris」とアルファベットが並んでいる。


「Fovea capitis femoris」

 読み上げてから、首を傾げる。英語では無いような気がした。


「ラテン語です。解剖学用語にはラテン語が使われているんですよ。紫苑君みたいにお医者さんを目指す人は、この骨の細部における名称もそこにつく筋肉の起始と停止、血管や神経に至るまで全て覚えるんです。日本語とラテン語で」

「えー、まじで……」

 その労力に意味を見いだせず、呆れた声になってしまった。正人は察したように笑う。


「この骨の窪みや溝、全ての形状に理由があります。筋肉がつく場所だったり、血管が通る場所だったり。そこから筋肉が発生し、関節をまたいで別の骨に辿り着き、収縮するから身体が動くんです。物を動かす時に筋力がその重さよりも強い張力を発すれば持ち上げることが出来ますし、足りなければ動かせません。長さが足りなければ届かないのは当たり前ですが、長さが足りても関節可動域が不十分であれば物を取ることが出来ません」


 正人は楽しそうにそう話した。とって置きの話をするように、目が輝いている。久しぶりに見る穏やかな表情に安堵し、折角の情熱に水を差さないよう気をつけながら美葉は尋ねた。


「そんな、お医者さんの玉子が読むような本を、なぜ正人さんが持ってるの?」

「父の書斎にありました。僕、友達がいなかったから、暇なときは書斎にある本を読んで過ごしていたんです。この人体に関する本が一番好きで、三巻全て暗記しました。一巻が骨、二巻が筋肉、三巻が血管と神経です。お陰で、オーダーメイドの家具を作る時、使う方の体つきや動き方を解剖学レベルで理解することが出来ます。何が役に立つか、分からないものですね」


 微笑んでみせるが、解剖学の本を嬉々として読む小学生の姿はどう考えても奇妙だった。だが、美葉はまた疑問を持つ。


「お父さんは物理学をされてるんでしょ? 何故医学書を?」


 ああ、と正人は頷いた。


「父の研究は『身体拡張システム』というものです。人間の機能を補ってやりたいことをやり遂げるために強化するシステムの開発をしているんです。身近なもので言うと、補聴器なんかそうですね。衰えた聴覚を拡張して補うでしょう? VRで見たことのないものを体験するのもそうです。骨格筋の力を補助する介護ロボットなんかも、医療分野で注目されている身体拡張システムですね。……あの人は、医療分野の身体拡張システムでは第一人者らしいです」


 楽しそうな口調が一転し、突き放すような口調になる。きっと正人はそのなんとかシステムには関心があり、その分野の研究に携わることを夢見ていたのだろう。父親に尊敬の念を抱きもしていたのだろう。


 茶色い背表紙に手の平を充てる。革を模したような凹凸があり、ひんやりと冷たかった。


 その時、玄関のチャイムが鳴った。

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