せめて悪者になってくれていたら

 口の中が急激に乾いた。口の中だけではない。砂漠の砂を流し込まれたように全身がずしりと重くなり、体中の水分が焼けた砂に吸い取られていくように、急激に乾いていく。


「遺書はありました。正人の誕生日を祝った後死ぬことを決意していたとありました。でも、彼女は実行する直前に、電話を掛けてきました」


 哲也は両手を広げ、そこに視線を落とした。


「止めて欲しかったのだろうと、思います」

 まるで、その手が息の根を止めたかのように、哲也は自分の手の平を見つめている。


「苦しみから逃れたい気持ちは、あったでしょう。その方法として自死以外、考えることが出来なくなっていたのでしょう。でも、死にたくないという想いも、あったのでしょう。……最後に伸ばした手を取るどころか、私は背中を押してしまったのです……」

 手の平を見つめ続ける哲也をこれ以上見ていることは出来なかった。美葉は瞑目し、口を結ぶ。


 もしも、哲也が電話に出ていたら、正人の母は自死を思いとどまったかも知れない。


 もしも、正人が約束通り家に帰り、一緒に誕生日を祝っていたら、正人は母の異変に気付き、最悪の事態を防げたかもしれない。


 二つのすれ違いが彼女の背中を押して、夫と息子は消えない後悔を胸に刻んだ。


 ――――でも、もしも哲也がその電話の話を正人にしていたら、正人は自分を責めはしなかったのではなかろうか。


 美葉はそう思い、目を開けて空の湯呑みを見つめた。


 父親を悪者に出来たのなら、こんなに苦しまなくて済んだはずだ。母の後を追いたいと願い続けることも、悪夢で目を覚ますことも、無かったはずだ。


 父親の役目を果たさないのならばせめて、悪者の役目くらい背負えば良かったのに。そう思うと腹が立ち、まだ自分の手の平を見つめている哲也を睨み付けた。


「彼女はずっと、私の助手であり続けました。研究が手につかず、職を失ってからも」


 ボソボソと、哲也は続けた。美葉はその言葉に違和感を感じて問う。

「アメリカの大学で研究を続けていたのでは、ないのですか?」


 哲也は首を横に振った。


「三年程はボーッと過ごしていました。頭が働かない研究者など、足を失ったマラソンランナーと同じです。身分を失ってからも、彼女は私の世話をしてくれていました。もういいと何度言っても、毎日家に来て食事を作り、洗濯をし、掃除をし……。スケジュール管理も、仕事のチェックもしなくていいから楽なものだと笑っていました」

「お父さんの事が、好きだったのでしょう? その方は」

「ええ。でも、自分は気持ちに応えることは無いと伝え続けていました。私は、沙月を愛していましたから……」


 じゃあ、どうして放置していたのだと、叫びたくなった。両手をぎゅっと握り、堪える。


「彼女の奉仕を拒まなかったのは、アメリカで研究を続け東京の妻子の暮らしを守る為でした。でも結局、自分の行いが愛する妻の命を奪いました。だから、もう彼女と縁を切りたかったのです。けれど、彼女は私に尽くす事を辞めませんでした。三年経ち、このままではいけないという気持ちを持てるようになり、企業の研究室で働き始めました。ニューヨークからカリフォルニアに転居する際も、彼女は当たり前のような顔でついてきました。近所に住み、さっさと職を見付けてね。研究者としての地位を捨て、結婚しないまま子供を産める年齢を通り過ぎてしまった。それなのに、死別した妻を思い続ける男の世話をするのが生き甲斐なのだと、笑って言う女性です。……そんな彼女の存在が、自分にとってかけがえのないものに、いつの間にかなっていたのです」


 まだ見ぬ女性の一途さが胸にしみる。彼女は何があってもぶれることなくこの人を愛したのだと思うと、正人の母を思う気持ちとは裏腹にエールを送りたい気持ちになった。


「どこかで、区切りを付けなければと思っていました。正人のことも、気に掛かっていましたし、会って謝罪せねばと思っていました。そんな時に、区役所から苦情の電話を受けました。彼女は、さっさと日本に行く手配をし、旅行用の服や鞄を揃えて『come to the point』と背中を叩きました」


「けじめを、付けてきなさい……」

 美葉の和訳に、拓也は小さく頷いた。何度か飲み込んできた怒りが、また頭を持ち上げてきて、握りこぶしを握った。だったらなぜ息子に声を掛けないのだと拳をテーブルに叩き付けたい衝動に駆られる。


 だが、美葉の心にふわりと柳のイメージが浮んだ。風にそよぐ柳に、寛容な声が重なる。


『真正面から受け止めるんじゃなく風に靡く柳のようにいなして、それでも自分の意思は貫く』

 言い含めるように、その声は何度も耳朶を震わせる。


 これは、正人と哲也の問題なのだ。自分の態度で、事を拗らせてはいけない。

 握った手の指を一本一本剥がすように、手を広げた。


「お父さん」

 美葉は、できるだけゆっくりと言葉を紡いだ。呼ばれた哲也は顔を上げ、不安げな表情を浮かべる。


「正人さんに、叱られてください」

 そう言ってから目を閉じて、呼吸を整える。


「正人さんの怒りを受け止めてください。苦しみを知ってください。悲しみに寄り添って下さい。問いかけに答えて下さい。……お願いします」


 美葉は、頭を下げた。


「正人さんが……私たちが前に進むために、必要なことなんです」


「分かりました」

 暫く間を置いて、哲也が答えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る