歪な父親
「一度しか、帰っていません」
「え?」
哲也の返答に美葉は思わず大きな声を上げた。哲也は気まずそうに視線をずらす。
「ある日、珍しく沙月から電話がありました。正人が学校に行かなくなってしまった。このままでは社会に適応できない人になるのでは無いかと、思い詰めた声で話していました。ですから急いで、日本に帰りました」
美葉は眉をしかめ、唇を引き結び、悪態をつくのを辛うじて堪えた。我慢に我慢を重ねた末のSOSだったろう。きっと電話することを何度も躊躇し、番号を最後まで押せないようなことを繰り返したのではないだろうか。病にすり切れた心で。
「その際『自分はもう役に立たないから離婚して欲しい。正人はアメリカに連れて行って欲しい』そう、言われました。勿論、断りました。沙月は私の支えになっていると、そう、伝えました。沙月は安心し『ごめんなさい』と謝罪していました」
一瞬背中を冷たい物が走り、身体が震えた。病んだ心で夫に別れを告げた時、自死の決意も固めていたのではないか。そう、思えてならなかった。「ごめんなさい」という一言を、どんな気持ちで言ったのだろう。本人に問うことはもう出来ないが、伝えた相手に真意が伝わっていないことは、どう考えても明らかだった。
何故こんなにも気持ちが伝わらないのだろう、この人には。同じ言語で話していても、何一つ噛み合わない。一見交わっているように見える二つの線が、真横から見ると上下に大きく乖離して全く接点を持っていないのと同じだと思う。
膝の上に拳を握り美葉が押し黙っている間、部屋には重たい沈黙が立ちこめた。流石に居心地が悪いと思ったのか、哲也は居住まいを正し、美葉に頭を下げた。
「……正人が、お世話になっているのでしょう。ありがとうございます」
突然の言動に戸惑い、大きく揺さぶられた心に反発心が生まれた。
「違います」
反発する気持ちが伝わらないように気をつけながら美葉は言った。訳の分からない初老の男に対して大人の対応をするのが今の自分の責務なのだと、我が胸に言い聞かせる。
「私も、支えて貰っています。私にとって正人さんは、無くてはならない存在なんです。どちらかが一方的に、では無くて、私たちは支え合っているんです」
口を結び堪えようとしたが、どうしても止まらず吐き出してしまった。
「お礼を言われる筋合いなんて、ありません」
一瞬、酷く傷付いたような顔をして、哲也は目を伏せた。責務を果たせず傷つけてしまったことに罪悪感を感じながら、美葉も目を伏せた。
しばらくの沈黙の後、哲也は長く息を吐き出してもう一度美葉を見つめた。そして、小さくくぐもった声で言った。
「電話が掛かってきたそうです。あの日、妻から。その電話に、彼女が出たのです。日本語で何かを言って、すぐに切ったらしいのです。その直後に、沙月は亡くなりました」
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