家の歴史と麦焼酎

 キッチンに向かうと、食卓の椅子に座っている哲也の姿があった。


窓の方へ身体を向けているものの、窓外の景色を見ていないことは明白だった。彼は身体を小さく丸め、深く項垂れていた。緩んでよれた首元のゴムが頼りなく立ち上がり、後頭部を少しだけ隠している。


白髪交じりの髪と年季の入ったグレーのスウェットスーツは哲也を彫像のように見せていた。作者がもしもいたならば、とても鬱陶しい題名を付けるに違いない。


 美葉は哲也に声を掛けずにキッチンへ行き、やかんで湯を沸かした。白湯でも良かった。何か身体を温めるものが欲しかった。


 正人が哲也の斜め向かいにぎこちなく座ったのが、対面式のキッチン越しに見えた。そして、この家の造りは先進的なものだと気付き、リビングダイニングを見渡した。


 合板のフローリングにクリーム色の壁紙。四人掛けのダイニングセットは壁紙と合わせたのだろうか、薄い色の木目だ。色合いが柔らかく、温かみがある。だが、三人掛けのソファーを見た時、その解釈は違うと分かった。


 バラ模様の布張りのソファーは色あせていた。マットは中央だけがくぼんでいて、その正面には四十インチ程のアナログテレビがあった。少年の姿をした正人がその窪みに膝を抱え、小さなテレビ画面を見つめる姿を思い浮かべる。


 対面式のキッチンが主流になったのは、丁度この家が建てられた頃。限られた建坪を機能的に使うため、それまで独立していた台所と食堂、居間を一つの部屋に合わせたLDKが、間取りとして当然の存在になった頃だ。


このキッチンはまだ「台所は人の眼に触れる場所ではない」という概念が根強く残っていた時代に流行った形だ。吊り戸棚や造作した壁で極限まで目隠しされている。リノリウムの床も当時流行したもので、ナチュラルな生成りの色をしている。


 生成りやクリームの色は、恐らく元は無垢なほど白かったのだろう。夫婦が家を建てた時、念願のマイホームを当時流行していた間取りや建材で建て、流行の家具で飾った。しかし、手入れは行き届かず色あせ、家族のあり方そのままに、痛んだ。


俯く正人を見て、泣きそうになる。恐らくその場所は、正人の定位置だったろう。向かい側の椅子のクッションは使われた形跡を残していない。恐らく彼の、母の椅子だろう。三人家族の想定で建てられた家はどこもかしこも、存在していた人の証を正人一人分だけ残して劣化している。


 ガス火で水が湯に変わっていく音を聞きながら、視線を逸らして俯く親子を見つめた。思わず溜息をついた。ボトリと音を立てて床に落ちたのではないかと慌てるほど、重たい溜息だった。


 このままでは、目を逸らせたまま終わってしまう。折角ここまで来たのだから、対峙しなければと思う。だが、憔悴する正人を見ていたら、それは酷な事だと痛いほど感じた。


 その内に、湯が沸いた。湯呑みを手に取り、そう言えば少なくとも十三年は使っていないのだと気付いて洗う。


 湯呑みを洗って布巾で拭いていたら、拓也が隣に立った。音も気配も無く現われたので、湯呑みを落としそうなほど驚いた。哲也は少し中身が減っている焼酎の瓶をコーリアン製のキッチンカウンターに置いた。この家に辿り着いてから買い求めたものだろう。「いいちこ」とラベルに書いてある。


「少し、リラックスできると思うので……」

 下を向いてボソボソと言う。美葉が振り返ると、正人は難問を前にしたような顔で少し首を傾けた。


「私は、ほんの少しだけいただきます。正人さんにはもう少し濃くても大丈夫です」


 そう答えると、哲也は薬剤を慎重に注ぐように湯呑みに焼酎を注いだ。一つは底から一㎝くらい、もう一つはその倍くらいそそいでから、残り一つの湯呑みには気楽な手つきで半分ほど満たした。美葉はそこに湯を足し、割り箸でかき混ぜた。


 濃い方の湯呑みを正人の前に置き、隣に座った。正人は無言でお湯割りを啜る。美葉も口を付けた。麦焼酎は癖がなく、飲み慣れない美葉の喉を緩やかに通りすぎた。湯だけでは無い熱が腹の底を温める。心身を温めるには白湯よりも良い方法だと、美葉は思った。


 朝の淡い光の中で飲む焼酎はまろやかで、キンと冴えた頭をゆっくりと解した。隣で正人も、深く息を吐いた。正人も哲也も、湯呑みに視線を固定したまま、最低限の動きで焼酎を啜っている。


『沙月……。許してくれ……』

 美葉の耳には、哲也の声がこびりついていた。


 哲也は、後悔している。妻の死に対して、罪悪感を抱いている。それは、紛れの無い事実のようである。侵入してきた若きユーチューバーを妻の霊と信じ、抱きしめ、赦しを請うたのだから。


 気まずい静けさが息苦しく、美葉は窓の外に視線を向けた。朝日が昇っても、鳥の鳴き声がしない。それが不思議だった。


 正人は湯呑みを空にして、立ち上がった。


「少し、眠った方がいいです」

 そう言って美葉の肩に手を置き、小動物が逃げ去るような足取りで部屋を去った。


 父の悔恨を、正人はどう受け止めたのだろう。美葉は不安で後を追おうと思った。その耳に微かな溜息を捉え、思いとどまる。項垂れる哲也の頭に視線を向ける。


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