お母さんの部屋

 事の真相は以下の通りである。


 正人の母が亡くなったのは、玄関先の松の木だ。彼女がそんな目立つ場所を選んだのは、正人に自分の無惨な姿を見せない為だった。家の中では、正人以外の人物が遺体を発見するはずが無い。だからといって、違う場所へ移動するほどのエネルギーは持ち合わせていない。


 ならば唯一、そして確実に家を訪れる人物に第一発見者になって貰おうと思いついた。それは、新聞配達員である。当事者にはかなり迷惑な話だが、他者を思いやる余裕もまた、持ち合わせていなかったようだ。


 だが残念なことに、友人宅から始発電車に乗って帰ってきた正人が、第一発見者となってしまった。新聞配達員が家にやって来た時、正人は母の遺体を前に茫然自失の状態で佇んでいた。新聞配達員は正人が母を殺したのだと解釈し、警察を呼び、現場は騒然となった。事件性は無いとすぐに分かったが、悪い噂が残った。程なく無人となったので尚更、噂が一人歩きしてしまった。


 心霊現象を紹介するサイトなどで「玄関先で息子に殺された母親の亡霊が出る家」と紹介され、この家は心霊スポットの一つとなった。


見ず知らずの人間が訪ねて来ては画像や動画をSNSに載せる。中に侵入する悪質な人間もいた。


好奇心旺盛でモラルを欠いた輩が集まるのは治安上好ましくない。近隣住民が「早く処分して欲しい」と思うのは当然だった。その内に、空き家はハクビシンの住処となった。夜な夜な奇妙な物音がし、悲鳴のような声がする。隣家の家族は溜まらず声を録音し、区役所に苦情を申し立てたのである。


 奇妙な物音がするという噂を聞き付けた心霊現象ユーチューバーのカップルが、動画を撮ろうと家に侵入したのが、本日の怪奇現象の正体である。リポーター役の女性に、妻の幽霊だと勘違いした哲也が抱きついた。女性は哲也を亡霊と思い、悲鳴を上げたのである。


 窓を割って侵入したユーチューバーバカップルは警察に通報させていただいた。


***


 事情聴取を終えた頃には、空が白み始めていた。階段下の物置から箒とちりとりを持ってきた美葉は、割れたガラスを集める。破片は朝の光を受けて淡く光っていた。


 新聞紙でガラス片を包もうとしたら、正人が手で制した。


「手を切ったら大変ですから」

 そう言って、新聞紙を畳んでいく。自分の手よりも職人の手が傷付く方が困るのにと思う。それを口にする力は湧かない。新聞紙が折りたたまれ、布テープで小さくまとめられるのをただ見つめる。割れた窓から冷たい風が吹き込んでくる。段ボールかなにかで塞がなければ。けれど、そんなに都合良く段ボール箱は見つからなかった。無人の家に宅急便など来るはずが無いから。


 ただ静かに、悲しみと不幸をたたえて佇んでいるはずの場所を、くだらない行為で踏みにじられたことにふつふつと怒りが湧く。正人は淡い溜息をつき、美葉と同じくガラスの穴を見つめた。


「後で、スーパーに段ボールを探しに行きます」

 正人の口調は凪いだ湖面のように静かだった。あまりにも疲れはて、感情を揺らすエネルギーすら枯渇しているのかもしれない。


 正人はくるりと身体の向きを変えた。そこには、空のベッドがあった。ベッドはダブルサイズである。布団もベッドパットも剥ぎ取られた空虚な姿に、身体が震える。正人は僅かに眉を寄せ、そこを凝視する。


 正人の母は、このベッドに横たわり静養していた。身体を起こせないほどの心の痛みとは、いかなるものだろう。それを見つめるしか無かった正人の心もまた、傷んでいたんでいたはずだ。その傷みがまたぶり返してしまうのが怖くて、正人の手を握る。正人の手は、体温を失ったように冷たかった。


「大丈夫……?」


 見上げると、正人はベッドに固定されている視線を引き剥がし、美葉に向けた。ほんの少しだけ、顎が動いた。頷いたのだと分かるには余りにも小さな動きだった。


サイドテーブルは埃を被り、クローゼットの扉は硬く閉まっている。何もかもが空っぽだ。そんな言葉が頭に浮んだ。ふと正人が小さく唇を開けた。何かを思い出したようだ。サイドテーブルの上に新聞紙の塊を置くと、その下の扉を開いた。


 扉の中は薄暗い空間だった。一冊のアルバムが、闇の底に置かれていた。正人がそれを手に取る。


「見てもいい?」

 好奇心から問いかけると正人は頷いた。唇の端が少しだけ持ち上った。


 クリーム色の分厚い表紙を捲ると、泣いている赤子の写真があった。生まれたばかりのようで、へそにガーゼが当てられている。写真の色はあせていたが、面影は残していた。


『正人 元気に育ってくれますように』

 細く繊細な文字が写真に綴られていた。


 ページを捲る。耳元で正人がハッと息を吐いた。


 赤子を抱く女性が写されていた。束ねた黒髪を頬の横にたらし、こちらを見つめてはにかんだ笑みを浮かべている。すっきりとした面差しの、美しい女性だ。既視感が湧き、何故だろうと考えを巡らせた。そして、母の遺影を思い出した。そうだ。いつか正人は母の遺影を見て、「僕のお母さんに似ている」と言った。


 正人の母の顔に、ぽたりと滴が落ちた。正人の指が慌てたようにそれを拭う。頬に涙が伝っている。正人はパタンとアルバムを閉じ、深く湿った息を吐いた。美葉はその背をさすった。


「あったかいもの、飲みたいね」


 茶葉が無いのは知っていたのに、そんな言葉が口をついた。正人が頷き、手の甲で頬を拭った。


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