女の亡霊
「やだ……」
震える身体を抱く。声に気付いたのか、足音が止まった。気付かれた。美葉は息を詰める。人ならざるものが振り返る。瞼の裏にその姿が在り在りと浮んだ。恐怖で悲鳴を上げそうになるが喉が痙攣し、声にはならず頼りない息だけが漏れる。
「美葉さん?」
問うような正人の声が頭上に響いた。知らぬ内に正人の腕を強く掴んでおり、眠りから引き剥がしてしまったようだ。美葉の手をもう一方の正人の手が包む。
階下で、ガラスが割れる音がした。跳ねるように正人が身を起こす。
「……幽霊……」
掠れた声でそう伝え、正人の腕を掴み首を横に振る。正人は冷静な表情を美葉に返した。
「科学で証明されないものなど、存在しません」
ベッドから起き出し、美葉の腕をほどいてドアへ向かう。
「この場合疑うべきは不法侵入者です。空き家に入る泥棒はいませんから、強盗の類いでは無いでしょう」
すっと背を伸ばして外に出る。美葉は慌てて追いかけた。一人になりたくなかったし、先ほどの物音や悲鳴のことを正人は知らない。あれは説明のつかないものだ。
正人の腕にしがみつき、身体を震わせながら階段を降りる。部屋と部屋に挟まれた廊下には光源が無い。明るいうちに往き来していたのでキッチンや風呂場がどの当たりにあるか感覚的に分かったが、そこは闇に包まれていた。正人はすり足で前に進む。
「……話し声がする」
首を少し傾けて耳を澄ます。美葉には何も聞こえないが、こういうことはよくあることだった。落ち葉が転がるような微かな音でさえ、正人の耳朶は捉える。耳を頼りにするように、壁を伝って移動する正人に、美葉も従った。心臓が早鐘のように打つ。この音さえもしかしたら、正人に聞こえているのでは無いかと思った。
正人が立ち止まった。
「お母さんの部屋だ……」
冷静だった正人の声が、震えた。その時、眼前の闇も大きく揺れた。
頭上に、再びコトコトという小刻みな音が響いた。ドアが音を立てて開き、空気が揺れた。美葉は思わず悲鳴を上げた。足の力が抜け、その場にへたり込む。黒い塊が蠢いて部屋に吸い込まれていく。その形は恐怖で溢れた涙で歪んでいる。外灯の光が、ベッドの形を映し出していた。そこに、髪の長い女のシルエットがぼうっと浮んでいる。
「沙月!」
黒い影がそう叫び、女のシルエットに重なった。切り裂くような悲鳴が空気を揺らす。
「沙月……。許してくれ……」
くぐもった声が聞こえる。
「おかあ、さん……?」
正人がそう呟き、夢遊病者のように足を踏み出した。いけない。美葉は叫ぼうとしたが、喉がコンクリートで固められてしまったように動かない。
正人が、悪霊に取り込まれてしまう。
呆然と歩みを進める正人に、美葉は手を伸ばそうとした。しかしそれは、微かな指先の振動に終わる。
「ギャー! 嫌! 離して! 助けて!」
女の形の影から悲鳴が上がる。その生々しい声に美葉は違和感を感じた。違和感は美葉から恐怖の重しを引き剥がしてくれた。美葉は廊下を這い、部屋の入り口に辿りつくと壁にしがみつくように這い上がり、手の平で目当てのものを探した。場所の目安はある程度ついている。どの住宅も同じ場所に配置されるものだからだ。美葉はそのスイッチを押した。
部屋に明かりが灯る。
スマホを目前に掲げる男の姿が正人の背中の向こうに見えた。続いて、長い茶髪の女に抱きつく哲也の姿が美葉の視界に入る。女性は若く、恐怖に顔をひきつらせている。
キーっという金切り声が聞こえた。それは窓の外からだ。割れた窓ガラスの向こうに二つ、小さな丸い光が浮ぶ。その光がすっと消え、イタチのような動物が身を翻した。
「ハクビシンだ……」
正人が呟いた。
「離して!」
女性が哲也の身体を押す。夢から覚めたような顔で、哲也は女性の顔をぽかんと見つめた。
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