夢を見ていた

 部屋に戻ると、正人はベッドに腰掛けて茫然と前を向いていた。物音に気付いて振り返ると、不思議なもののように美葉を見上げる。必ずあるはずの愛情は瞳のどこにも見当たらない。まるで石か岩でも眺めるような眼差しに、肌が粟立つ。記憶をなくしてしまったのではないかと不安になり、隣に座ってそっと肘に触れた。


「大丈夫?」

 問いかけると、正人は曖昧に頷いた。それからまた、美葉をぼんやりと見つめる。


「……全部、夢だったんだと、思っていました」

「夢?」


 正人は頷いて、ピクリと頬を震わせた。微笑もうとして、失敗したのかも知れない。


「目が覚めたら、自分の部屋だったから。……お母さんと誕生日を祝う約束をして、破ってしまったことも。……お母さんが死んでしまったことも。旭川で家具職人の修行をしたこと、アキと結婚したこと、別れて当別に来て美葉さんと出会ったこと、一緒に樹々を創って、仲間が出来て、美葉さんと恋人同士になって……。そんな、長い夢を見ていたんだと、思いました」


 ゆっくり、一語一語噛みしめるように、正人が言う。夢では無かったと気付いて、残念だと思っただろうか。そう問いかけようとして、やめた。その問いかけの代わりになるものを探して、視線を彷徨わせる。正人を直視することが出来ず、東京に来るために買ったタンガリーシャツの、袖に出来た皺を辿る。


「……良い夢だと、思った?」

 やっと見付けた言葉を舌から押し出すと、正人は頷いた。その頷きに、美葉は安堵する。正人は小さく首を傾ける。


「でも、夢だったと思った瞬間、ほっとしました。お母さんが死んでいなくて、良かったって……」


 正人の唇が不思議な形に歪む。また笑おうとして失敗してしまったようだ。異様な形のまま、正人は美葉に縋るような視線を向ける。


「……僕は、三十一の姿をしていますか?」

「してるよ」


 正人の腰に両手を回して抱きしめる。曖昧になった存在をつなぎ止めるように、力を込めて。


「私と一緒に年を取ってきた正人さんだよ」

「そうですか。……夢じゃ無かったんだ……よかっ……」


 正人の喉がぐっと音を立てた。喉仏が大きく動いて、湿った吐息と共に涙が顎を伝う。斜陽が窓から差し込み、空中の埃を照らす。正人の微かな泣き声に胸が苦しくなる。正人を抱きしめて、その息遣いや、鼓動や、体温を必死で感じ取る。そうしていないと、消えてしまうような気がした。

 

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