一九歳の部屋

 正人の部屋にはシングルベッドや勉強机、本棚などが十九歳当時のまま残されていた。


机の上には分厚い本とノートが無造作に置いてあった。まるでさっきまでこの部屋の主が勉強をしていたように見える。本棚には数学や科学、物理、英語といった教科書らしきものが並んでいる。微分積分学は聞いたことがあるが、線型代数学なんて学問の名前を聞いたのは初めてだ。


十九歳の正人の夢は、学者になる事だった。物理学者の父と同じ道を進みたいと希望していたのだ。東大物理工学部一年生の教科書は、まるで異世界の書物だ。


「頭のできが違いすぎる……」


 背表紙を見つめながら、美葉は溜息をついた。「東京の大学に通っていた」と聞いていたが、それが東大の事だと知った時は本当に驚いた。「中退ですから」と恥ずかしそうに頬を掻いていたが、合格できただけでも誇って良いと思う。それなのに、受験勉強はそれ程大変ではなかったとサラリと言ってのけるので倒れそうになった。


 こんなに知能指数が高いのに、敬語と友達口調を使い分けることが出来ない。どんな相手にどんなシチュエーションで敬語を使えばいいのか判断できないのだという。


最近は健太と悠人が「敬語禁止、呼び捨てにする」ということを友情の証と強いるのだが、これもまた正人を混乱させている。悠人と健太以外の人間が混じるとどんな言葉を使ったらいいのか分からなくなるらしい。「健太と悠人以外の人が混じる場面では敬語を使う」というルールを設けるまで、話が出来なくなってしまったほどだ。


 持って生まれた能力と生活能力とのギャップは、子供時代の正人を苦しめてきたのではないだろうか。漫画本やゲーム、CD。十九歳の若者ならば持っていて当然のものが無い。この殺風景な部屋は正人の心そのもののような気がして、居たたまれない気持ちになった。


 突然、けたたましい音がして我に返る。何かが割れる音に聞こえた。美葉はベッドに横になった正人が安らかな寝息を立てていることに安堵した。緊張状態で倒れそうな正人を何とか嘗ての自室に促し、少し横になるように勧めた。正人がすぐに寝息を立てたのが、今日見付けた唯一の救いだった。


 音がしたのは、階下のようである。階段を降りてすぐにリビングのドアがあり、少し隙間が空いていた。そっと開けて中に入る。リビングにはブラウン管のテレビとデザインの古いソファーセットが置いてあった。その奥は、キッチンに続いているらしい。


「あ、ああ……」


 そちらから、動揺した声が聞こえてきた。足音を立てないように近付いてのぞき込むと、正人の父親哲也が呆然と立ちすくんでいた。足元には、割れた食器が散乱している。


「お皿、割っちゃったんですか」


 思わず、声を掛ける。哲也はびくりと肩を震わせた。美葉と目が合うとせかせか眉を小指で擦り、もう片方の手をわたわた動かす。


「え、ええ。……お茶をお出ししようと思ったのですが、どこに何があるのか分からず、探しているうちにうっかりと……」


 言葉にケトルの笛が重なり、あああと呻きながらガス代の前で何度か右往左往し、火を消した。


 やっぱり。

 美葉は嬉しくなって、微笑んだ。


 もしかしたら、哲也は正人によく似ているのでは無いだろうか。そんなことを予想していた。今目の前にいる哲也は、慌てている正人と全く同じではないか。


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