父と子の嘆き

赤く染まる満天星の小路

 駅を出るとすぐ、急な坂道が立ち塞がる。雨が降っていたようで、アスファルトから湿った匂いが立ち上ってくる。坂道の向こうには、夕焼け空が広がっていた。


 正人は朝から殆ど口を開いていない。ただ、蜘蛛の巣のような路線図をチラリとも見ずに電車を乗り継いでいくのには感心した。東京の人波に翻弄され、前に進むことすら一苦労の美葉は、頼りなく丸まった背中についていく事しか出来なかった。


 夕焼け空に続く坂道の頂上で、正人は足を止めた。


 石を積み上げた堀と真っ黒な両開き門。中の様子は窺えないが、人の気配が途絶えて久しいと、雰囲気で察する事が出来た。木製の表札の「木全」の文字が薄く禿げている。固く閉ざされた門に正人は手を伸ばしたが、次の瞬間、力を奪われたようにダラリをそれを下ろした。


 正人の全身が、ガタガタと震えだした。横顔は血行を失い、死人のように蒼白だ。瞳孔が開いた眼差しは、現実世界にある何ものも映していないように見えた。


「……駄目です……」


 震える唇が、それだけを吐き出した。美葉はキャリーケースから手を離し、正人の手を握った。振動を感じるくらい、その手は震えていた。


 この先に、正人の育った家がある。そして、母が命を閉じた、松の木も。


『帰ろう』


 そんな言葉が喉に込み上げてきた。こんな苦難に相対する必要があるのだろうか。やはり、知らせなければ良かったのでは無いだろうか。顫動する顎先を見つめながらそんな思考が頭をよぎる。


 けれどもう、時は戻せない。手を引いてとんぼ返りすることは出来るけれど、「逃げた」という事実が残ってしまう。きっとそれは苦くて重い過去となり、正人の未来に影を差すだろう。


 正人は、逃げなかった。困難なことからすぐに逃げ出してしまう正人が、今回は逃げずに今日ここに立つ事を選んだ。その決意を、支えなければ。


 美葉は両手を伸ばして正人の頬を包んだ。驚く程冷たい感触が指を通して喉元を締め付ける。顔を自分の方に向け、視線が定まらない瞳をのぞき込む。当て所なく見開かれた瞳の焦点が、ゆっくりと自分に定まっていく。


「大丈夫」

 その瞳に、美葉は頷いた。


「目を、閉じて」


 美葉の言葉に正人は問うような表情を浮かべた後、ゆっくりと両目を閉じた。美葉は正人の頬から手を離し、代わりに両手を握った。その手を自分の両肩に置くと、離れないようにゆっくりと前を向いた。


「このまま、ついてきて」

「……はい」

 乾いた声が、応じた。美葉はキャリーケースを押して一歩前に進み、黒い門を開けた。


 思わず、息を飲んだ。


 樹形の乱れた満天星どうだんつつじが血のように赤く染まり、黒い玄関ドアに向かって小道を作っていた。石畳の隙間から雑草が伸びている。美葉はキャリーケースを持ち上げ、唾を飲み込んでから、足を踏み出した。


 その日は、正人の誕生日の翌日だから、今と季節は変わらない。正人は紅葉した満天星の小路を急いで玄関へ向かっただろう。たった十歩ほどの距離が、嫌に長く感じた。満天星の小路を抜けると、薄灰色の外壁が見えた。家の横には切り取って数年経ったであろう切り株が、雑草に紛れていた。肩に置かれた正人の手が大きく震え、荒い息が後頭部に掛かる。美葉はチャイムを押した。早くその場所から離れてあげたかった。今から行く場所も正人にとって安全な場所では無いかも知れない。でも、ここよりはましだ。


 程なくして、ドアが開いた。


 初老の男性が顔を見せる。細く、肩が丸まっていて、実際の年齢よりも老けて見えた。堀の深い目鼻立ちや、形の良い唇が正人とよく似ている。


「初めまして。お手紙を差し上げた谷口美葉です。……すいませんが、とにかく中に入れて頂けますか」


 美葉は頭を下げてから、正人の身体に腕を回し、玄関の中に押し込んだ。正人は激しく肩を上下させている。


「正人……」

 父に名を呼ばれた正人の身体から力が抜け、膝から崩れ落ちた。


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