女子旅:佳音の気持ち
「……どうか、したの?」
遠慮がちに、アキが問いかける。アキは佳音の顔を正面から見ていた。佳音は我に返ったように苦笑して、首を小さく横に振った。それから一つ伸びをして、身体の向きを変えて湯に両足を浸した。佳音の胸が揺れた。元々豊かな胸は更に大きく膨らんで、子を育てる準備を進めている。
「保育園、入れるかな」
茶化すように笑って言う。
「まだ先でしょ? それとも、大地のこと? もう三歳だから、当別の保育園なら大丈夫だと思うよ」
アキが言うと、佳音は首を横に振った。
「二ヶ月過ぎたら、働こうと思ってるの」
え、と美葉は思わず声を上げてしまう。産休と同時に退職した佳音は、双子が一歳になったら町内の診療所で働きたいと話していた。まだ職場も決まっていないはずなのに、生まれたばかりの子供を保育園に預けてまで働くというのは、どういう事なのだろう。
佳音は俯いたまま、続けた。
「栄田農機に、就職させて貰うの。できるだけ早く。錬の方が一足先になるかな……」
「佳音が……?」
アキの問いかけに、佳音はしっかりと頷いた。その後くっと顎を上げ、前を見据える。
「錬が、お義父さんの後を継ぐなら、私はお義母さんの役割を、継ごうと思うの」
「看護師は? 辞めるの?」
美葉の問いかけに佳音は頷いた。
「辞めるの」
前方を見詰める表情には、強がりが滲んでいた。佳音が簡単な決意で看護師を辞めるはずはない。その決意に心が容易についていくはずもない。だから尚、何を言えばいいのか分からなかった。
「お義父さんが不在でも、会社はちゃんと機能してる。それは、お義母さんが専務として仕事を支えてきたからだと思うの。会社を継ぐって事は、従業員の皆さんの生活を守る事で、町の産業を支えるという事。滞ってはいけないの。だから、錬と一緒に栄田農機を継ぐ」
「……もう、ご両親には……?」
アキが問うと、佳音は小さく首を振った。
「今、抗癌剤治療してるから、まだ。治療が終わって帰ってきたら、言おうと思ってる。……その時には、今後の見通しも、立っていると思うし……」
思わず息を飲む。
抗癌剤治療の後の、今後の見通し。それは、命の期限がどれくらいあるかという見通しなのだろう。看護師として現実を見てきた佳音は、その宣言に「奇跡」という下駄を履かすことはないだろう。他のみんなが抱く希望を否定することもないだろうが。佳音は現実を見つめながら、残された時間で精一杯会社の経営を学ぼうとするのだろうか。
後悔、しないのだろうか。
湧いた疑問を口にすることは出来なかった。しかし、佳音には見透かされていたようだ。苦笑いを浮かべて美葉を見つめ、ゆっくりと首を振る。
「後悔は、してないよ。……ううん、しないように、気持ちを決めた」
美葉は頷くことしか出来なかった。
「私の夢は、『自立した人になること』。自立するのに、看護師という職業で一人前になる事が絶対に必要だって、思ってた。でも、そうじゃないって、藤乃さんを見てたら気付いたの」
遠くから、獣の鳴く声が聞こえた。狐の鳴声のようだ。闇を裂く甲高い音に、鳥の羽ばたく音が重なる。
「これまで私、自分は社会的にも経済的にも自立しているという自信があった。だからどこかで、錬がパン屋をやるのも錬の自立で、自分には関係ないことだと思ってた。勿論、家族だから協力することはするけど、職業のことは口出しも手出しもしないと思ってた。でも、気付いたんだ。私が目指している『自立』は、職業的なものでも経済的なものでもない。一人の人間として、きちんと自分の足で立って歩いて行く事よ」
美葉は頷く。
「そしてね、役割を果たさなければいけないって事にも、気付いたの。自分が背負った役割を、責任を持って果たさなきゃいけない。私の役割は、どうやら看護師じゃなくて、栄田農機で会社を支える事みたい。これは、運命なんだ。……そう、思う。迷ってる暇、ないしね」
佳音はそう言って、クシャリと笑った。その目尻に少しだけ涙がにじんでいるのを見付けたが、美葉は見ない振りをするべきなのだろうと思った。折角固めた決意を、今はぐらつかせるべきではない。
その代わり、これから先の人生に何か辛いことがあったら、絶対に佳音を支えよう。そう、思った。
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