女子旅:美葉の気持ち

佳音の視線がこちらに向いたのを美葉は察し、肩を竦める。

「私は、東京から帰ってきたら考える」


 サバサバとそう答えて、腰まで湯に浸かった。冷えてきた身体に湯の熱がジンと伝わり、ほっと息を吐く。佳音は首を傾けた。


「東京に行くって、決めたの?」

「決めた。来週立つ」


 美葉はきっぱりと言いきった。もう既に飛行機の手配はしてあるし、孝造から聞いた父親の住所にエアメールも送った。正人の空気は日に日に険しくなるが、敢えてそれに気付かぬふりをしている。不穏な正人から離れるのは気がかりだが、今回の旅で東京に行く前に気を緩める時間を持てたのはありがたい。


「……大丈夫?」


 首を傾けて佳音が問うので、美葉は強がりを言うのを止めた。溜息をつくと、湯気が揺れた。湯は茶褐色なのに、立ち上る湯気が白いのは不思議だと、頭の片隅でふわりと思った。


「怖いかな」


 呟くとまた湯気が揺れる。言葉の行間を埋めるように、ちょろちょろと湯が流れる。


「正人さんがどうなるのか、予想がつかない。正人さんをちゃんと、支えきれるかなって、ちょっと不安」


 身体を鎮めると、顎が湯に浸かった。微かな湯の匂いにどこか懐かしさを感じる。深い森林に入り込み、ふかふかとした地面を踏みしめた時のような香りだ。札幌も当別も由仁も、地盤は泥炭層だ。泥炭は冬に枯死した植物が蓄積して出来る。泥炭から汲み上げる茶褐色の湯がモール泉だから、発酵した植物の香りがするのは当然のことなのだろう。


 佳音もアキも、なにも答えない。二人は安っぽい激励はしない。その分、心の底から正人と自分の事を想い、何が最良なのか考えてくれている。


 湯が流れ、木々が擦れ、遠くで梟が鳴く。


「でも、大丈夫。何があっても正人さんの傍にいて、一緒に帰ってくるから」


 佳音が頷いた。


「正人さんも、東京に行くことに何か意味があると思っているんだよね」

「多分。お母さんに伝えたいことがあって、それを伝えたら何かが吹っ切れるって。……お父さんのことには、触れないんだよね。言葉に出来ないくらい感情が上手く纏まっていないのかな。喧嘩にならないといいんだけど」


 感情の統制がとれないのは父親譲りらしい。そんな二人がぶつかり合ったらどうなるのだろう。自分は上手く仲裁できるだろうか。美葉の不安を見透かしたように、佳音は首を横に振った。


「手に負えなければ、警察呼びなよ」

「え、警察……?」

 思わず顔をしかめると、佳音はしれっとした顔で続ける。


「痴話げんかだとしても、大人が本気で喧嘩したら大きな怪我をするかも知れない。そんなことになったら、お互い余計に気まずくなるわ。美葉が巻き込まれて怪我をしたら、余計にね。また正人さんの中でいろいろ拗れるわ。手に負えない喧嘩なら、本職の人に止めて貰いな。第三者に話を聞いて貰って、お説教の一つも喰らったら、頭に血が昇った当事者達も客観的に物事を捉えられるようになるかもね」


 冷静な言葉に納得し美葉が静かに頷くと、佳音はその頭をぽんと叩いて湯から上がった。


「のぼせたー」

 そう言って、湯船の外に足を下ろす。緩やかに巻いた後れ毛が風に揺れた。佳音の身体はほのかにほてっていた。


「大丈夫よ。みんな、なるようになるんだわ」


 その声音に強ばりを見付けて視線を向けると、佳音はくうをじっと見つめていた。ランタンの光が佳音の瞳孔に光を与えている。何かを決意するような横顔に、かけようとした言葉を詰まらせた。


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