東京迷子

 命が幾つあっても足りない。脹ら脛に湿布を貼りながら陽汰は思う。ダイニングではのえるがバーボンソーダを飲んでいる。翔が初日から大滝琢郎のカツラを剥ぎ取りツルッパゲを晒すという失態をやらかし、クビになった。あいつはある意味、凄い奴だと思う。一人でマンションに置いておくと暇とエネルギーを持て余してろくな事がないと、世史朗が当別に身柄を預けに行った。


 今は、マンションにのえると二人きり、だ。ホテルかどっかに泊まろうかと言ったら、「なんで?」と返された。成る程、自分は男として扱われていないわけで、一人ドキドキしているのは滑稽で。だからこうして、何気ない振りをして一緒にいる。


 好きだって、言ったよな、お互いに。


 もう、三年も前だけど。いや、三年も前だから、なかったことにされてんだな。


 そりゃあ、されるか。三年だもんな。


 一人で自問自答する。アクションシーンが半端なく激しくて、体中が痛い。


 初日のアクシデント以外は、撮影はスムーズに進んでいる。のえるの演技は圧巻だ。悲劇的で可憐な姫と、残虐な殺人鬼の姿を見事に演じ分けている。存在感があって、妖艶で、儚げで、美しくて。何で女優の道に進まなかったんだろうな、とみんなが言う。


 映画が終わったら、のえるはどこか遠いところに行ってしまうんじゃ無いかな。そんなぼんやりとした不安を感じるようになった。そうなったら、ku-onは終わりだな。のえるがいなければ、成り立たない。


 のえるがふらふらと立ち上がり、グラスにジンビームを注ぐ。


 飲み過ぎなんじゃないかな。気になって、立ち上がる。食事もあんまり食べていないのにそんなに飲んだら、駄目じゃん。


 のえるは、スマホの画面を見つめていた。どうやらLINEで誰かとやり取りしているらしい。誰かって、相手は一人しかいないけど。


 LINEの相手はのえるのお母さんだ。のえるの母親はアルコール依存症で、起きているときは常に酒を飲んでいるらしい。それを知っているから、のえるの酒の飲み方が、心配になる。


「さびしい」


 唐突に、のえるが言う。ドキリと心臓が跳ねる。のえるは画面に目を落とし、唇の端を持ち上げて薄く笑っている。


「帰ってきて。お酒なくなった。買ってきて」

 なんだ、LINEの内容を読み上げているのか。一瞬安心して、更に心配になる。


「アマゾンで買いなよ。買い方分かんない。買って持ってきて。行けるかよ。今東京。そんなの知らなかった。何で教えてくれなかったの。面倒くさ。いつ帰ってくるの。早く帰ってきてよ。さびしい。お酒ない。買ってきて」


 のえるが顔を上げた。目がとろんとしていて、少し赤い。


「この女、頭いかれてるよね」


 そう言って笑って、グラスを持ち上げて水みたいに飲み干す。ジンビームの瓶を持ち上げる。グラスの中にはもう、氷は殆ど残っていない。ストレートじゃないか。陽汰は思わずグラスの口を手で塞いだ。手の甲に琥珀色の液体が当たり、跳ね返ってテーブルを濡らした。


「何してんの」

 そう言いながら、のえるは手を止めない。


「もう、飲むのやめな。明日に響くからさ」

「そうだね」


 そう言いながら三秒ぐらい、甲を濡らし続けた。全部ぶちまけてしまったら、とりあえず今日飲む酒はなくなる。そう思った時、のえるはやっと瓶をおこした。


「……捨てたいよ、親」

「捨てて良いと、思う」


 心からそう思った。でも、随分無責任なことを言ったと、すぐに後悔した。


「無責任だな」

 のえるが笑う。


 無責任なのは、親を捨てたいと言った自分自身のことなのか、それを簡単に容認した返答なのか、よく分からない。ウイスキーがポタポタ床に垂れる。その音が、断続的に響いている。のえるが人差し指を琥珀の泉に浸した。


「……一緒に、寝る?」

「う、うぇ?」


 頭が真っ白になり、やけに滑稽な声が喉から飛び出た。頭は真っ白なのに、身体は正直に反応している。そんな自分が凄く酷い奴に思えてしまう。人差し指を無意味に動かしているのえるは、凄く酔っていて、孤独で、心を傷めている。


 こんなんじゃ、駄目だ。


 陽汰は勢いを付けて立ち上がった。


「どこ、行くの?」

「ネットカフェ」

 部屋の隅に無造作に置いた鞄を肩に掛け、逃げるように部屋を出た。


 冬の東京は、嫌いだ。丁度骨が冷えるくらいの気温がずっと続いて不快だ。空は小さくて、星は見えなくて。吐く息だけは、当別と変わらずに白い。


 ピコン、とスマホが鳴る。


『嘘だよ。冗談。戻ってきて』

 文字を打つのえるが、泣いているんだと思った。立ち止まり、画面を見つめる。何をどう返したら良いのか、戸惑う。LINEだったら、気持ちをちゃんと伝えられる。そう思っていたけれど、今は文字で気持ちを伝えることも上手く出来そうにない。


『さびしいよ』


 しばらくして、そんな言葉が画面に現われた。


 のえるの寂しさに寄り添えない自分が惨めだと思う。いい男なら、のえるが望む通りの事をしてあげるのだろうな。彼女の気が済むまで。


 だけど、最初の一歩を酔った勢いに任せるのが、嫌だった。そんな事をしたら、明日からどう振る舞ったら良いのか分からなくなる。自分とのえるは単なる男女であって、でもそれ以外の諸々のものをひっつけている。


 嫌それは、言い訳だ。多分、意気地がないだけだ。


 戻って、何もないような顔で自分の部屋に行って、寝て。それで良いような気がする。でも、帰る勇気がない。のえるを一人にするのも、嫌なのだけれど。


 深く、溜息をつく。


『心はそっちに置いてった』


 ふと思いついた言葉を、送った。すぐに恥ずかしくなって取り消そうとしたけれど、一瞬で既読になる。


『くさ』

 すぐに返事が返ってきた。恥ずかしくて頬が熱くなる。


『もう、寝な』

『うん』


 やけくそで打った言葉に、すぐに返事が返ってきた。


『陽汰の心を抱っこして寝る』

 うわ、やめて。恥ずかしい。そう思いながら、返信した。


『おやすみ』


 すぐに、羊が鼾をかいているスタンプが返ってくる。適当に選んだだろう。そう突っ込もうとして、やめた。


 スマホごとポケットに手を突っ込んで歩き出す。ネットカフェはどこにあったかなとキョロキョロ視線を動かす。


 今から当別に帰れるかな。ふとそんなことを考えた。無理に決まっているのに、無性に当別に帰りたくなった。闇雲に歩きながら、自分がどこに向かっているのか分からなくなり、不安に胸が潰れそうになった。

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