友の声援
珍客現る
迷いを捨てた正人は、集中力を取り戻した。東京に行くためには、ずっと先まで詰まっている予定を数日空けなければならない。ただでさえここ最近予定が狂い勝ちだったので、仕事時間を朝と夕、一時間ずつ増やす。正人は大した苦を見せずそれをこなした。
樹々がそんな切羽詰まった状態なのに、彼はマイペースにやって来た。けたたましく玄関ドアのチャイムを鳴らし、大きな足音を立てて。
「誰も客いねぇじゃん、ウケるー!」
その声を聞いた途端、美葉はこめかみを押さえた。町のアイデアを練っており、少しずつ考えがまとまってきた矢先だった。幸い過集中ゾーンに没入している正人は、侵入者に気付かないようだった。美葉は音を立てないように気遣いながらショールームへ向かう。
「珈琲入れ放題!!」
案の定翔がキッチンに駈けて行くところだった。入り口付近には、世史朗が影武者のように佇んでいる。止めてくれてもいいのに。翔は碌に量りもせずミルに珈琲豆をぶち込み、ガリガリと音を立てて挽く。世史朗がケトルに水を汲み、IHコンロにかけた。
ガリガリと豆を挽く音が突然途切れる。
「俺、壁昇ってくる!」
ミルはそのままに、翔はキッズスペースに駈けて行く。ヒャッホーという奇声がドアの向こうに聞こえる。今日はいつに増して行動が破天荒だ。
「お久しぶりです」
直立不動で世史朗は頭を下げる。すらりとした長身でいつも背筋をすっと伸ばしている。ツーブロックの長髪を後ろに束ね、ウェーブの掛かった前髪をぱらりとサイドにたらしているその姿は、侍のようだ。
「今日はお願いがあって参りました」
神妙な面持ちで美葉を見つめる。陽汰のバンドメンバーの彼らは、バーベキューをした折に親しくなり、樹々に遊びに来るようになった。翔が一人でやって来ることはなく、常に世史朗が傍に控えている。
「何でしょう?」
美葉は首を傾けた。翔も世史朗も、風変わりであるが友達と呼んでいい間柄だと思っている。翔は正人と何となくよく似ていた。自身のコントロールが苦手で、衝動性に翻弄されてしまうところが特に。翔は正人に比べて注意の転動が激しく、動き回る駒のように落ち着かない。正人はどちらかというと集中の深みにはまって抜け出せなくなる方だ。
「一週間ほど、翔を預かってくれまいか」
「預かる?」
思わず眉を寄せる。世史朗は相手の表情の変化には無頓着で、言葉を続ける。
「なに、寝食を共にして欲しいとは言わない。昼間、ここのグラウンドで思う存分ギターを弾かせてやってくれたら良い。気が済めば自分の足で実家に帰る。エネルギーが余っているので駅まで歩くのも問題ない」
言うだけ言ってガリガリとミルを挽き始める。美葉は小さく肩を竦めた。
「私達は体育館から電気のコードを引っ張って来るだけでいいってこと?」
「その通りだ」
世史朗の声はガリガリという音にかき消される。
「こんなに寒いのに、屋外で?」
「屋内でエレキギターを大音量で鳴らせるところがあればそこにするのだが」
「スタジオとかあるじゃん。駅前のふれあい倉庫にもあるらしいよ」
世史朗は首を横に振る。ミルの豆はやっと粉砕されたらしく、からりと一度空回りした。代わりにケトルがピーッと笛を鳴らす。淀みない動作で世史朗はコンロを消し、振り返ってコーヒーポットを食器棚から取り出した。
「何か物があるところは困る。翔が何を壊すか分からん」
「世史朗君は一緒じゃないの?」
頷いたようだが、湯を注ぐために俯いているのでよく分からない。
「一週間、翔の傍を留守にする」
珈琲豆が膨らんで、ドーム状になっている。美葉は黙ってそれを見ていた。
「陽汰とのえるが映画に出ることになった」
「うん。知ってる知ってる。凄いよね」
特撮番組のヒーローに抜擢されたときも驚いたが、まさか映画の主演とは。それを聞いたときは本人不在で祝賀会を開いたほどだ。
「端役だが、俺と翔も出演することになった。だが、翔は初日でクビになったのだ」
「え? クビ?」
世史朗は若干眉を寄せた。
「何せ初めての場所だから、興奮してしまってな。目を離したすきにあちこち動き回り、至る所でものを破壊した。挙げ句の果てに、大御所俳優のカツラを剥がしてしまったのだ」
「お、おお……」
翔の行動はミラクルだ。何に注意が向くか分からないし、次にどんな行動に出るかも分からない。しかし……誰のカツラをずらしたのか、気になる。
「で、即刻クビになったのだが、自分は既に何シーンか撮影が済んでいるので役を降りるわけにはいかない。これは、ku-onのプロモーションも兼ねている映画だ。これ以上迷惑をかけたら業界から抹殺されかねない」
「それは、大ごとだね」
世史朗は頷き、コーヒーカップを食器棚から取り出し、そこに珈琲を注ぐ。カップは三つあったが冷めないうちに翔が帰ってくるかは不明だ。キッズルームからは相変わらず奇声が聞こえてくる。
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