月の夜に決意する
和夫の寝かしつけというミッションを終え、美葉と正人は外に出る。夜空には半分欠けた月が輝き、雪をほの青く照らしている。
「空手、やったらいいのに」
月を見上げる正人が白い息を吐き出しながら言う。
「そう?」
美葉の問いかけに、正人は顔を上げたまま頷いた。
正人の顎は少し尖っていてとても綺麗な形をしている。けれど必ずポツポツと髭のそり残しがある。指を伸ばして触れたい衝動に駆られたが、手をポケットから出すのが億劫でやめた。青白い月明かりに照らされた正人は石膏で出来たように冷たくて、少しの衝撃で壊れてしまいそうだった。無精髭だけが彼を生身の人間だと証明しているように見える。
「今日の美葉さんはなんだか生き生きしてます。……このところ、塞いでいる感じがして心配でした。……僕のせいなのでしょうけど……」
「そんなことないよ」と否定しようとしたけれど、嘘になるので止めた。そういう正人だって、ずっと変だ。だけど今日の食卓は、久しぶりに空気が和やかで、そのせいなのか大根が瑞々しくて甘いと感じた。
ああ、と美葉は呟いた。
傍にいるから、影響し合うのだなと改めて気付く。暫く重苦しい空気をお互いに発していたのだろう。空気は影響し合い、悪い方へ流れて広がる。その流れを今日意図せずに変えたから、正人の気持ちにも変化が生まれ、食卓の空気が和んだのだろう。
『真正面から受け止めるんじゃなく風に靡く柳のようにいなして』
昼間の言葉を、再度味わう。
こういうことなんだろうかと、少しだけ腑に落ちたような気がする。多分自分にはとても苦手なことなのだ。どうしても真正面からぶつかって、何もかもをすっきりと解決したくなる。出た余りは四捨五入して片づけてしまいたい。けれど正人を見ていると、物事はそうは簡単に行かないのだと感じる。正人は誰もが気付かないことに気付き、沢山の寄り道をしては余計なものを持ち込み、割り切れないものを沢山作っては途方に暮れる。
それらを無造作に分類し、「不用品」のラベルを勝手に貼り付けて捨てたりしていないだろうかと、不安になった。
晴れた冬の夜は静かだ。
春も夏も秋も、大地に熱がある間は、鳥や虫や蛙など何かしらの生き物が声を出して、生きていることを主張する。雪に覆われ、地面まで凍り付いてしまう世界では、それらは辛うじて生きていける場所に潜み、生体反応を最小限にして、春になり地に熱が戻るまで命を繋がなければならない。だから、氷点下の世界に命の音は無い。
「……まだ、迷っています」
掠れたような正人の声が、小さく聞こえた。間違えて起き出した蝉の声のように。
「何を、恐れているの……?」
真冬の蝉は、微かな空気の振動でも潰れてしまうように思えた。だから、空気を揺らさないように注意深く問う。淡く白く、溜息が正人の顎の上に広がる。
月に雲がかかり、辛うじて照らしていた光が世界から消えてしまった。
「……お母さんを見付けた場所に行って、僕は正気を保てるのでしょうか……」
美葉は驚いて正人を凝視した。照らす物がなければ影も生まれず、正人の輪郭は闇に溶けてしまいそうなほど曖昧になっていた。
玄関先の松の木で変わり果てた母を見付けるという衝撃が、いかほどのものだったのか。想像したことが無かったわけではない。けれど、また自分には想像力が足りなかった。正人が主に囚われているのは、父と対面する事への葛藤だと思っていた。憎み、拒絶してきた相手に会うことよりも、鮮烈に刻まれた記憶の場所に立つ事の方が、正人を恐れさせているのだ。
美葉は思わず正人の腕を抱きしめた。
「行かなくても、いいんだよ」
高鳴る鼓動を抑えることが出来ないのと同じくらい、その言葉を止められなかった。
心が潰れてしまうかも知れない事に、対峙する必要などない。それならば後に後悔を残した方がましだ。
「でも、謝りたいんです。……お母さんに、伝えたい言葉が、あるんです……」
「ならお墓参りに行こうよ。いつか心の準備がしっかり出来てから。それで、充分だよ」
正人は硬く首を横に振った。
「……行かなければ、ならないんだと、思うんです。どうしてだか、分からないんですけど、そんな風に思うんです……」
正人の手の平が頬に触れた。その時初めて、自分が涙を流したと気付いた。
正人は、両手で美葉の頬を包み、自分の方に向けた。正人の両目は影になり、黒い穴のように見えた。
「僕がどんな風になっても、僕の手を握っていてくれますか?」
「あたりまえ、だよ」
美葉は大きく頷いた。正人の顔のずっと向こうで雲がゆっくりと動いていた。やがて月がほんの少し顔を出し、正人の顔を照らす。その唇が、微かに綻んでいた。
「支えて貰ってばかりで、すいません。でも、前に進むためには、行かなければならないんです」
月の光は鮮やかさを取り戻し、すっと伸びた鼻筋の影を作った。
「東京に、ついてきてください」
細く強く透明なテグスのような声だった。その糸を切らぬように美葉は、ゆっくりと頷いた。
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