筋肉痛と普通の幸せ

 身体の痛みに、思わずうなり声を上げる。太ももの付け根や臑の前側が特に痛い。筋肉痛という現象を体感するのは何年ぶりだろうか。いや、こんなに酷い筋肉痛は生まれて初めてかも知れない。


「僕が運びます」

 見かねたように正人が味噌汁をのせた盆を取りに来た。


「小一時間空手やってその様か。情けないな」

「お父さんには言われたくない」


 日がな一日レジ前の椅子で居眠りをしている和夫に、美葉は唇を尖らせた。


「美葉さん、空手習うんですか?」

 味噌汁の椀をテーブルに並べながら問いかける正人に、美葉はゆっくりと首を傾けた。


「検討中。やってみたい気もするけど、買いそろえないといけないものがあって初期費用が掛かるし、週一の休みの半日が潰れると思うと二の足を踏むな」


 かといって、休日に何かする事があるのかと問われると何もない。樹々にいればカフェの客と話をしたり、正人の仕事を手伝ったりと結局休日らしからぬ時を過ごすことになる。京都にいた頃は不眠がちだったが今は日々充分な睡眠をとれており、惰眠を貪る必要は無い。だらだら寝転んで過ごすのは性に合わないし。佳音もアキも日曜日は仕事をしていることが多いので遊びに誘う相手もいない。時間を潰せる趣味も特にない。強いて言えば読書だが、建築の専門書を開いてしまうので結局頭が仕事モードになってしまう。それくらいなら、半日じっくりと身体を動かすのも悪くはないとも思う。


「正人さんも一緒にどう?」

 ふと思いついて問いかけたが、正人は苦笑いで首を横に振った。

「僕は遠慮しておきます。イレギュラーな身体の動かし方をすると仕事に影響しそうですし、時間の使い方が変わると生活リズムが狂いますから」

「だよね」

 想定通りの回答に、美葉も苦笑を返した。


 正人の家具は精巧で寸分の狂いもない。角を削ったり彫り物を施したり、一つ一つの家具に必要充分な気遣いと創意工夫をこらす。


 それらの仕事は全て、過敏とも言える感覚と天性の器用さのなせる技だ。普段使わない筋肉を使う事は、美葉の想像が及ばないくらい大きな影響を与えるのかも知れない。


 それに、正人の時間軸は元来とても不正確で乱れやすい。大抵人は決まった時間に眠気をもよおし決まった時刻に目が覚める。体内時計が備わっているからだ。正人にはそれが欠落しており、好きな時間に寝起きをしていると簡単に昼夜逆転してしまう。だからいつもタイマーを掛け、決まった時間に起き、食事を取り、集中と休憩を繰り返し、眠たくなくても床につく。


 形ないものを無理矢理真四角の入れ物に収めるみたいだと思う。けれどそれをしなければ、正人がこの社会でまともに職業をこなして生きていくことは出来ない。


 テーブルには大根と豚肉の煮物、鱈のもやしあんかけ、ほうれん草とわかめの味噌汁が並んだ。


「今日もご飯が美味しくて幸せです」

 ニコニコと正人が笑う。

「そう言って頂けて私も幸せです」

 美葉は片目を瞑って応じた。和夫は無言で味噌汁を啜っている。


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