清柳

 胸に小さな熱とペットボトルを抱いて格技場に戻る。ビニールタイルを敷いた廊下の床はペタペタと足の裏に張り付いた。その感触は余り心地よいものではなく、フローリングの格技場へと急ぐ。走っている自分が子供のようだとふと思い、笑みがこぼれた。軽く息を弾ませ、枠だけの格子戸を開けたところで、橋本に手招きされた。


「後半は型稽古の時間。折角だから、女性陣だけで『清柳』をやろう」

「せいりゅう?」

「そ。清らかな柳と書いて『清柳』。来週女性部の練習会があってね、毎回最後に『清柳』をやるの。明日香と真奈美に、初心者の指導ができるくらい今から叩き込むところ。折角だから、美葉さんも」


 名前を呼ばれた二人がぺこりと頭を下げる。明日香と呼ばれたのは高校生くらい、真奈美と呼ばれたのは中学生くらいの女の子で、どうやら姉妹のようだ。どちらも長い髪をお下げにしていて、ふくよかというよりはどっしりとした、安定感のある体格をしている。明日香は茶色、真奈美は紫色の帯を着けていた。


 そう言えばと首を巡らせると、真新しい黒帯を着けた猛は、年配の黒帯を着けた男性と複雑な動きの型を練習している。初めて習うのか、猛の動きはぎこちない。その向こうで、青や紫、茶の帯の少年達がキビキビと型の練習を繰り返している。猛が習っているものよりは動きはシンプルだったが、これさえ覚えて出来るようになるには相当な時間が必要だと思う。道場の前方には、白や黄色の帯の子供達が栗林の周りに集まっていた。


「清柳は、『きめ』を作らない。柳のように、柔らかい動きが特徴」

 橋本の声に我に返ると、明日香と真奈美が横に並び、その前で橋本が直立に立ち、腕を胸の下に組んでいた。美葉は慌てて明日香の横に並ぶ。


「足は肩幅、右手グー、左手パーでグーを隠します」

 明日香が言葉に合わせて身体を動かし、両肘を張る。美葉もそれを真似た。


「戦いに向けて握った拳を左手で隠してるんだよ」

 橋本が言葉を添える。


「一回やってみるよ」


 そう言って一呼吸置き、右足を前に踏み出した。


 腰を落とし、緩やかな動きで右手が弧を描く。すくい上げるように開かれた手の平は空を掴むように握られ、右の肘が前方の敵を打つそうに鋭く突き出された。すぐさま左の足を踏み出し、反対の腕も同じ動きをする。


 柔らかく弧を描いている手は、敵の身体をすくい上げているのだと悟る。同じ動きをもう一対繰り返してから、右の拳を深く引き左手で隠した後、左右の拳を頭上で交差させる。頭部に向けられた攻撃を受け止めたように見えた。


 右の肘を折り拳の背を見せて構えた時、美葉はハッと息をついた。流れるようにゆるやかな動きに一瞬だけ見せた鋭さだった。動きはまた凪となり、十字の受けを地に向ける。緩やかに淀みなく身体を起こすと、左右に大きく両手を広げた。その後、両脇の敵を拳で倒し、左の攻撃を手の平で受け下方に払う。右もまた流れるように。


 後方に下がりながら大きく弧を描いて相手の身体をすくい上げた後、くるりと背を向け上段の攻撃を受け、また前を向き二度上段の受けを繰り返してから胸の前で両拳を交差した。


「セイ!」


 冷えた空気を切り裂くような声と共に、十字に空を切ってから両拳を脇に降ろし、一礼する。


 清柳。


 凪いだ風に緩やかに揺れる柳を思い浮かべる。橋本の動きは柔らかく、淀みなく、時に鋭かった。


「先生格好いい!」


 明日香がそう言って拍手をし、真奈美はその隣で目を大きく見開いていた。美葉は身動きがとれず、少し照れた顔でまだ最後の所作のままでいる橋本を見ていた。


「女性部の練習は、年に二回。そこで必ず最後に清柳をやるんだよね。清柳は黒帯になってから習う型なんだけど、白帯も黄色帯もみんなで清柳をやる。何でだか分かる?」

「格好いいから!」


 明日香が少しふざけた口調で言う。真奈美が咎めるような視線を姉に送る。どうやら姉は調子に乗るタイプで妹ははにかみ屋さんのようだ。橋本は明日香に笑って頷いた。


「それも正解。ついでに言うと、黒帯で習う清柳はしっかりとキメを作るキレキレの清柳。凄く格好いいんだよ。でも、女性部の清柳は、キメを作らない柔らかい清柳。どちらも正しい」


 キレキレの清柳というものを美葉は上手くイメージ出来なかった。たった今目にした、風を受けてそよぐ柳のような清柳の印象が強すぎたのかも知れない。


「女性の人生は様々な難関をくぐり抜けなきゃなんない。女にしか分からない苦労が沢山あるんだよね。そう言うものを、真正面から受け止めるんじゃなく風に靡く柳のようにいなして、それでも自分の意思は貫く。しなやかに、そして強く生きていきましょう。女性部の清柳にはそんな願いが込められているんだよ」


 そう言って橋本は右手で柔らかな弧を描いた。


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