美葉のストレス発散法
正人の仕事が全く進まなくなった。普段は過集中と呼ばれる境地に達し、鋭利な感覚をより研ぎ澄ませて仕事を進めるのだが、過集中どころか、全く集中できなくなってしまったのだ。
こうなると、ミスが頻発する。いざ組み立ててみるとダイニングチェアの足が三本しかないなんてことはざらにある。正人の仕事は美葉が把握し、工程表で今日するべき仕事を正人に示していた。工程表通りに進まないことはよくあり、都度修正する。その修正作業に、追われるようになった。美葉自身も設計事務所の仕事を抱えているし、その合間を縫って町の設計も考えなければならない。時間との闘いに、焦りが生まれる。
正人がミスをする原因は明確である。正人は悩んでいるのだ。東京に出向き父と対面するのか、それとも会わないと決意するのか。抱えきれない問題に出くわすといつも逃げてしまう正人が、今初めて難題に真正面から立ち向かっている。
その姿は苦悩に溢れ、悲壮感さえ漂っている。手を止めている時はいつも、苦しげに表情が歪んだり、瞳が暗い穴のようになっていたりする。悪夢にうなされる夜も増えた。
正人の傍にいるのが苦しいと、美葉は感じる。けれど傍で支えなければならない。正人が逃げ出さないのに、自分が逃げ出すわけには行かない。黙って狂った工程を修正し、食卓を賑やかに飾り、できるだけ和やかな空気を作る。それくらいしか、自分に出来る事はなかった。
美葉は陰鬱な気持ちを抱えるのが得意ではない。問題が起これば積極的に立ち向かい、早く解決してすっきりさせたいと思う。だが、これは正人の問題で、代わりに決断するわけにはいかない。しかし、ストレスで胃の調子が悪くなり、食欲が失せ、楽しい食卓を演出するのが辛くなってきた。
どうしたものか。
美葉は思案した挙げ句、身体を動かしてはどうかと思った。そこで、いつか誘われた空手の体験に出かける事にした。
服装はズボンなら何でもいいと言われたが、一応ジャージの上下に身を包んだ。早朝の格技場の床は冷たい。部屋に入ると誰もがそうするので、思い切って靴下を脱いだ。でも足の裏全体を床に付けることが出来ず、暫くつま先立ちになっていた。
子供達は靴下を脱ぎ捨てると、はしゃいで走り回わる。広々として遮るものがない格技場は、これ以上無い遊び場なのだろう。地面が雪に覆われていて、外遊びが制限される冬は特に。猛を含む上級者は柔軟体操をしたり雑談をしたり、思い思いに過ごしていた。
やがてがらりと入り口のドアが開いた。途端に空気がキリリと引き締まり、走り回る子供達の動きが止まる。
「押忍!」
師範の橋本が入り口で左右の手を十字に切った。後方に、背が高く筋肉質の男性が立っている。彼は両肩に大きなミットを下げていた。黒帯を締めているが、橋本よりも格が下だと一目で分かった。それでも充分強そうなのだが。
「今日は、よろしくお願いします」
美葉は二人に駆け寄り、頭を下げた。橋本は丸い頬を綻ばせる。
「来てくれて嬉しいよ。今日は存分に暴れていってね」
そう言って、ウインクをする。
「はい! 暴れちゃいます!」
美葉は笑って応じた。
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