色とりどりの人生を
昼食を終えた佳音は、眠気を感じて軽く両目を閉じた。今日は遅番なので、通常の勤務よりも一時間昼休憩が遅い。空腹を我慢するのは少し辛いが、昼休みを一人で過ごせるのは気が楽でいい。そう思って安心しきっていたのだが、ノックの音にびくりと肩を震わせた。
「お疲れ様-」
そう言いつつ笑顔で休憩室に入ってきたのは佐々木師長だった。五十代のふくよかな女性で、いつも柔和な笑みを浮かべている。温厚な人柄だが、相手が部長クラスの医師であろうが間違っている事は間違っていると伝えるし、院長が相手であろうと部下を庇って意見する正義の人である。
「もう少しで産休ね。二人をお腹に納めて働くのは大変でしょうけど、もうちょっと頑張ってね」
「シフトで配慮して頂いているので、大丈夫です」
佳音は頷いて答えた。安定期に入る前や、お腹が大きくなり動きにくくなってからは、病棟のリーダーや配薬係といった、身体を動かさなくて良い仕事を佳音に回してくれている。大地を妊娠していたときは不公平だと不満を言う者がいたが、この三年で産休や育休を取る人が増え「必要な配慮」と認知されるようになった。
「もうすぐお別れね。寂しくなるわね……」
佐々木師長は佳音の膨らんだ腹にそっと手を置いた。改めてそう言われると、胸がジンと熱くなる。今は看護師として一人前の仕事が出来るようになった。しかし、要領の悪さや飲み込みの悪さが尾を引き、人一倍成長に時間がかかった。その上自己評価が低く、精神的なバランスを崩しやすい。そんな自分に寄り添い、成長を支えてくれたのが佐々木師長だった。
こんなにも心を砕いて育てて貰ったのに、看護師を辞める選択をせねばならない事が心苦しかった。
「次に職場を選ぶ時には、内科以外にした方がいいわ」
佐々木師長は明るい声で言う。佳音の心臓はその言葉にドキリと揺れた。それを悟られないように、好奇心を装って首を傾げる。
「どうしてですか?」
佐々木師長はクイズ番組の司会者のような顔で笑みを浮かべる。そして、人差し指を軽く立てた。
「視野を広げる為よ。それぞれの科によって、必要な技術も知識も変わってくるし、何より患者さんの層が違うでしょ」
佳音は頷く。産休を除けば四年余りのキャリアだが、点滴などの処置や内科疾患に対する生活指導、認知症患者への対応はそつなくこなせるようになった。これが整形外科であればまた必要な処置は変わるだろうし、小児科や耳鼻科など子供の多い職場は想像の範疇を超える。
「看護師にとって一番大切な事って、何だと思う?」
改めて問われ、佳音は背を正す。
「知識と、技術、そして判断力でしょうか」
「良い答えね」
佳音の言葉に、佐々木師長は満足げに頷いた。
「知識と技術と判断力。それは、大切ね。それがなければ、患者さんの命は預かれない」
教師のような口調でそう言ってから、「でもね」と言葉を続ける。
「人間力だと思うのよ」
「人間、力……?」
佳音は首を傾けて、反芻する。佐々木師長は少しはにかんだ笑みを浮かべ、それでも力強く頷いた。
「病院なんて、来たくて来るところじゃないわ。誰だって病気になりたくないもの。増して入院となれば沢山の人に迷惑を掛けて沢山の心配事を抱えなくちゃいけない。職場や家族に迷惑を掛ける。収入が途絶えて金銭的な問題を抱える。患者さん一人に、幾つもの形の違う苦悩がある。その悩みやストレスは、病の治癒を妨げるかも知れない。治療を放棄してしまうことだって、あるかも知れない。治療の先に希望を見いだせず、命を絶ちたいと考えるかも知れない」
検温や血圧を測る時、配薬でベッドサイドを回った時、患者がポロリと抱えている不安を口に出すことがあった。それはとても深刻であったり、悲観的で涙を伴っていたり、苦しみを隠して笑っていたり、内容も表現の仕方も様々だった。佳音は時間が許す限り傾聴するようにしていた。時間に追われ、話の途中で中座することも、残念ながら少なからずあったが。
「人の苦しみは、その人でなければ分からない。けれど、気持ちに寄り添うことは出来る。その為に必要なのは想像力よ。想像力は、沢山の出会いや経験が育ててくれるもの。だから、色んな科を回って、色とりどりの経験を積みなさい」
「はい」
痛烈に後ろめたさを感じながら、平静を装って頷く。看護師としての成長を願って、伝えてくれた言葉だ。もう、看護師ではなくなるのに。後、二週間ちょっとで。
「看護師じゃない視点が、あってもいいかも知れないしね」
佐々木師長はそう言って、佳音の肩をぽんと叩いた。え、と佳音は呟いて佐々木師長を見上げる。師長は窓の方へ視線を向け、眩しそうに目を細めた。
「とりあえずは子育てね。色んな事があると思うけど、子育ての時間って、人生の宝物だと思うわ。一瞬一瞬を大切にしてね。他のことは、二の次でいいと思う」
佳音は自分の腹に手を当てて、頷いた。双子の子育てという未知の分野への挑戦が始まる。他の人には変わって貰えないミッションだ。
「でも、大丈夫。あなたなら、乗り越えられるわよ。あなたは、自分で思っているよりも何十倍も、強い人だと思うわ」
思わぬ言葉に、息を飲む。自分には強さの欠片もなくて、自信がなくて、いつも心が揺れてしまう。そんな自分に、強さなどあるのだろうか。その問いに答えるように、佐々木師長は笑顔で頷いた。
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