樹々に荷物を置きに来た
樹々は冬になると訪れる客が少なくなる。雪が降ると二輪車には乗れなくなるし、ドライブもあまりしなくなる。他の場所が晴れていても当別が吹雪いているという事はよくあるので、心得ている者は冬に当別を目的地にはしない。
時計の音だけが響いている。椅子に腰を下ろし、佳音は薄めに淹れた珈琲を啜った。高校生の自分に合わせて作られた椅子は、時を経ても腹に子を宿しても身体に馴染む。まるで労るように身体を受け止め、心を落ち着かせてくれるのだ。
外回りをしているのか美葉の車は無かった。正人は仕事に集中しているか留守にしているのかどちらかだ。来客を知らせるドアチャイムは、鳴らさないように気をつけても小さな音を立てた。仕事をしていない状態ならば、正人は聞き付けるはずだった。けれど工房とショールームを隔てるドアは開かない。
それで良かった。正人に話をすれば、きっと丁寧に心の内側に入り込み、自分の本当の気持ちが表に出るよう導いてくれる。でも今はまだ、気付いた事実と選択肢に動揺している。少し落ち着いて考えなければならない。一時の感情に流されるのでは無くて、自身の欲求に執着するのでも無くて、無視をするのでも無くて。納得をして、進む道を選ぶべきなのだ。
樹々に立ち寄ったのは、気持ちを落ち着かせるためだった。
甘い木香と香ばしい珈琲の香りが染み込んだこの場所に一人でいると、身体の中の余分な力が抜ける。気付かぬうちに背負ってしまった、些末で重たいものを降ろし、少しだけ身軽になれる。樹々は黙って、置いていったものを引き受けてくれる気がする。
樹々には、一杯の珈琲を飲むためだけに来る常連客が少なからずいる。彼らもきっと同じように、背負ってしまったものを置きに来るのだと思う。
風で窓の木枠が揺れた。カウンター席の向こうに見えるグラウンドには雪が積もっている。もうくるぶしくらいの高さにはなっているだろう。冬はこれからが本番だ。産休に入れば実家の世話になる。久しぶりに過ごす当別の冬が穏やかなものであって欲しいと切に願う。
だがこればかりは、過ぎてみないと分からない。その日その日を乗り越え、春の足音に気付く頃「今年の冬はどうだったか」と振り返る事が出来る。
その時、今日の事をどのように受け止めるのだろうか。形にならない不安が胸に込み上げてきて、深く息を吐いた。
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