自分は余りにも無知だった

 その時、ドアをノックする音が聞こえ、藤乃が顔を出した。


「お待たせして申し訳ございません。……佳音ちゃん、ありがとう。例のものは、倉庫の入り口に置いてあるから持っていってね」

 佳音はほっと息を吐いた。全身から力が抜けそうになったが、何とか笑顔を取り繕い、会釈をして外に出た。


 冷たい風が頬に刺さる。


 自分たちは、余りにも愚かだった。錬が我が儘を通す。それがどれだけの影響を周囲に与えるのか、真剣に考えた事がなかった。


 ざわざわと落ち着かない胸を抱えて、資材倉庫へ向かう。アルミのドアを開けると、薄暗い倉庫に数人の社員がいて、その視線が一斉にこちらを向いた。誰かが「あ、息子の嫁だ」と小さく呟いた。佳音は軽く会釈をし、首を巡らせ、きちんと折りたたまれた想定よりずっと大きなベビーカーを見付けると、早足でそちらへ向かった。


 佳音がそれを手にするよりも先に、男性の手がベビーカーを掴んだ。いがぐり頭に黄色いヘルメットを被った、三十代の男性だった。


「車までお持ちします」


 静かな声でそう言って、先に外に出るように首を使って促した。従業員の誰かが舌打ちをしたのが聞こえた。思わず出たものではない。明らかにこちらに聞こえるように、舌打ちをしたのだ。


 涙が出そうになる。


「……すいません。みんな、ちょっとナーバスになってて」

 軽い口調で男性はそう言って、迷いなくチアフルピンクのハスラーに向かう。


「錬君が失踪してからずっと、跡継ぎどうすんだって、水面下でみんな心配してたんです。それが、出てきたのに会社継がずにパン屋やるって聞いて、不満が爆発しちゃって。お二人に対して、怒りを感じている者も少なくないから、あんまり会社の敷地に立ち入らない方がいいです。……すいません、みんなの気持ちも、分かってやってください。跡継ぎいなくて会社が潰れたら、生活、立ちゆかなくなるじゃないですか。それに、顧客の農家さん達も、困るじゃないですか。当別の農家さんみんな、うちの資材使ってるし、農機のメンテナンスもウチだし。一般の家庭だって、除雪機の販売とかメンテナンスは殆どウチが賄ってるし。栄田農機が潰れたら、当別の暮らしが一変するんです」


 佳音は思わず立ち止まった。ああ、と男性は眉を下げる。


「錬君と佳音さんを責めたかったんじゃないんですよ。俺は、どっちかって言うと応援してたんです。自分の夢追いかけるのって、いいなって思って。俺も、田舎暮らしに憧れて若い頃札幌から当別に越してきたんです。農業の事何も知らないのに、家から近いってだけで、ここにお世話になって。そんな俺のこと、社長は丁寧に育ててくれた。だから、恩返ししなくちゃ。……俺だけじゃない。八人の社員はみんな社長に何らかの恩義を感じているはずだ。だから今、息子さん責めてる場合じゃないんだ。みんなでこの危機をどうやって乗り越えるのか、考えなきゃ……」


 風に立ち向かうように男性は顔をグッと上げた。少年らしさが残る童顔に強い決意のようなものを感じた。


「……皆さんにご心配とご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 佳音は深く頭を下げた。


「やめてください。謝らないで。誰だって、自分の思うとおりに生きたいじゃないですか。人生なんて、一度きりなんだから」


 男性は大きく首を振ってそう言い、ベビーカーを車の後ろに置いた。佳音がハッチバックを開けると、ベビーカーを持ち上げて乗せてくれた。


「ありがとうございます」

 佳音は頭を下げ、逃げるように運転席に乗り込んだ。


 車を運転しているのに、自分の足で走っているように呼吸が苦しい。


 錬は、事の重大さを知っていた。だから、逃げ出したのだ。大学一年生の秋、新しく出来た夢を諦めることが出来なくて、でも会社の行く末も気になって。現実を直視することを、放棄したのだ。


 そして、自分はなにも分かっていなかった。錬がパン屋を開業しようとも、会社を継ごうとも、自分の進む道は何ら変わらない。自分は子育てと看護師の仕事を両立して生きていく。一人の自立した人間になるのが、目標だ。だから、看護師を続ける以外の選択肢は自分にはない。


 そう、思い込んでいた。


 藤乃は、突然社長が不在になっても滞りなく会社を回すことが出来ている。多少の慌ただしさやぎこちなさはあるのかも知れないが、経営が行き詰まる事はない。


 それは、長年傍にいて夫と共に会社を背負い、専務として社長をサポートしてきたからだ。もしも藤乃が会社の経営に全く関わっていなかったら、今頃会社の経営は破綻し、顧客である農家達は頭を抱えていただろう。会社にはそれだけの社会的な責任がある。


 錬がそれを背負うというのならば、自分も藤乃のように共に背負い、錬を支えなければならない。


 荒い息をしながら農道を進むと、小学校の赤い屋根が見えてきた。

 


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