無加温ほうれん草栽培始動
ビニールハウスに保温カーテンを取り付ける作業は、伸也の指導の下アキが行なう事にした。健太が手を出すと、どうしても親子の間で衝突が起きる。健太も伸也も、お互いのことを黙って見ているタイプではない。
ビニールハウスは、農園のハウス群の中でも最奥の物にした。伸也が手順を忘れず正しい方法で作業を行なっているか、点検するのもアキの役目だ。しかし、アキが農園の敷地に立ち入ることを文子が極端に嫌っているので、目に付かないように行動しなければならない。
アキは脚立に乗り、側梁という横方向に伸びるパイプに保温カーテンを這わせ、筒を半分に割ったような形状のタッカーをはめて固定していく。伸也は意外と几帳面で、タッカーの場所が均等かどうかに拘った。
「アキは働きもんで、動きも機敏だ。良い子が嫁に来てくれたもんだ」
伸也は満足気に頷く。アキは頬を染めて少し俯いた。伸也の中では、自分は健太の嫁と言う認識になっているのだろうか。だとしたら「お義父さん」と呼んだ方がいいのだろうか?いや、流石にそれは恐れ多い。そこまで考えて、自分の思考に苦笑を浮かべる。
脚立から降りると、保温カーテンの裾が地面に分厚く折り重なっているのが見えた。あ、と声を上げて眉を寄せる。
「保温カーテン、長すぎましたね。勿体ない事しちゃった……」
身体をかがめて、半透明のビニールに触れる。注文したのは健太だったが寸法を間違えたのだろうか。それとも自分が伝え間違えたのだろうか。どう見ても三十㎝ほど長い。
「いや、それでいいんだ。裾を地面にたらしておかないと、めくれ上がって冷気が入ってくるからな。このカーテンは薄手だが、空気の層があって保温率が高いんだ」
開発者のように胸を張る。こうしていると、認知症を疑われているなど全くの勘違いのような気がする。農業の知識は豊富で、何をしても手際が良い。これを「手続き記憶」と言うのだと佳音から聞いた。身体で覚えたことは、認知症になっても忘れにくいのだという。
「こんにちは」
保温カーテンを開けて、悠人が顔を見せた。ハウスの準備が整ったら悠人が登場する。健太と悠人のシナリオ通りに事は運んでいる。演技をする自信が無いアキは、ただ黙って伸也の視界から外れた。
「おじさん、アキがほうれん草作るって聞いたから、うちの余ってる資材持ってきたさ」
「ほうれん草?」
伸也は怪訝な顔をする。「無加温のほうれん草栽培」と健太が提案しても、伸也はピンと来ないようだった。そこで、アキがほうれん草栽培をするのでそれを手伝ってもらうという設定にしたのだった。ビニールハウスの保温作業をしている内に、その設定も忘れてしまったようだ。
「アキは素人に毛が生えたようなもんだから、伸也さんが付いていてくれたら百人力だね」
伸也はアキにそっと目配せをしてそう言った。アキが悠人の有機農園を手伝い始めて三年が経つ。悠人の農園での作業なら大抵のことは出来るようになったはずだ。だが伸也にしてみれば、頼りなく非力で、息子に情けを掛けてもらっている女のままなのだ。そこを上手く使おうとしているのだろう。自分は何も気にしないと伝えるため、アキはそっと首を横に振った。
悠人は板を運び込み、手際よく木枠を組み立てていった。伸也が怪訝そうに顔をしかめている。
「実験なんですよ。保温のために夜間は断熱シートを掛けたいんで、トンネルよりもレイズドベッドにした方がシートを掛けやすいかなって」
「素人の家庭菜園みたいだな。根腐れしねぇか?」
「そこら辺の加減は伸也さんに任せておけば問題ないしょ」
「……まぁ、な」
伸也はぎこちなく頷いた。
ほうれん草は路地に植え、トンネルを被せて保温する。レイズドベッドのような、箱に土を入れる農法では作らない。路地を耕す方がよっぽど楽だし、水が溜まって根腐れを起こす心配もない。だが、保温シートは陽が昇ると巻き取り、夜になるとまた被せるという手間が発生する。トンネルのように隆起した場所よりも平らな場所の方がシートの扱いが楽なのだ。
悠人が土を入れ始めると、伸也も手を貸した。二人の熟練農業家によって、あっという間に苗床は出来上がった。満足そうに伸也が汗を拭く。
「で、これは何をするもんなんだ?」
素朴に問いかける伸也に驚いたが、アキは顔に出さないように気をつけて頭を下げた。
「悠人さんに教わった無加温のほうれん草栽培を、私も試してみたいんです。ご指導、よろしくお願いします」
「そういうことか。なら、任せておけ!」
伸也はどんと胸を叩いた。
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