酷い言葉を浴びせられて

 文字盤が大きく見やすい時計の隣に『九時シート外す 十六時シート掛ける』と書いた張り紙を貼り付ける。入り口から入ってきた伸也の視線が真っ先に捉える場所である。『シートを外す』の文字の下に、シートを解放した状態の画像を、『シートを掛ける』の下にシートをかぶせた状態の画像をそれぞれ貼り付けた。


 佳音に相談しながら作った物だが、上手く行くかどうか不安だった。しかし「上手く行かなければ違う方法を探せば良いんだよ」と言った佳音の笑顔を思い出し、力を得る。頭が悪いから自力で名案を考えることは出来そうに無い。味方になってくれる存在に感謝しつつビニールハウスを後にする。


「何してるんだい」


 納屋の前を通りかかったとき、文子の冷たい声が聞こえた。心臓がドキリと震え、思わず身体を竦める。振り返ると、ニット帽の下にある両眉をきつく寄せた文子が立っていた。


「このところコソコソと、他人の農場をうろついて。一体何を狙っているんだい」

「何も……」


 それ以上の言葉は、喉の奥に引っかかってしまった。アキは身体を硬くして立ちすくむしか出来ないでいる。


「何を企んでいるんだろうね。最近はうちの旦那を振り回しているようだが、息子だけじゃなくその父親まで誑かそうとしているのかい」

 辛辣な声音に耳たぶを切り裂かれるように感じて、目を閉じる。ビニールハウスの外は冷えていた。冷風が吹き抜けて首筋を冷やしていく。


「いつまでも人の家にいついて、厚かましい。一体何時になったら出て行くんだ」


 これまでも文子はきつい言葉を投げてくることがあった。しかし、今日の言葉はいつに増して強く、容赦なく、途切れることがない。小柄なアキと変わらない小さな身体が、巨大な圧となって近付いてくる。二本足で立ち両手を挙げて威嚇するヒグマのようだ。しびれるような恐怖を感じ、呼吸ができなくなる。


「どこの馬の骨か分からない人間に敷地内をうろうろされるのは本当におっかなくて叶わないね。何時になったら出て行くんだ。今日こそははっきりして貰おうか」


 人差し指を胸に突き立てられ、アキは後退る。頭がしびれ、視界が白くぼやけてくる。尚も暴言を浴びせる文子の言葉が解読できなくなり、文子の姿に遠く忘れかけていた人物が重なった。


 それは、実母の姿だった。


 金色に近い茶色の髪をきつくカールさせ、目の周りをラメの入った化粧で飾り、油のようにてかる紅を引いていた。パーツの一つ一つは鮮明に思い出せるのに、全体像は曖昧だった。


『この泥棒! 人の男を寝取って!』


 鼓膜を切り裂くような金切り声が蘇る。一緒に暮らす男に乱暴された事を打ち明けた時の声だ。


 目眩が起こり、意識が白濁しそうになる。両足に力を入れて目を閉じ、自分が立っていることを確かめてから目を開けた。


 文子の隣に、人形が座っていた。


 長い黒髪を背中にたらし、青いシフォンのワンピースを着た人形が、両足を広げて座っている。ガラスの瞳をこちらに向けて、唇を結んでいる。幼い少女の人形は問いかけるように見つめている。


『いらないの?』


 代わって欲しい。アキはそう思った。怖い。どうしていいのか分からない。どうしていいのか分からない。だから、代わって欲しい。


「お母さん!」


 急に手首に強い力を感じて正気を取り戻した。猛が自分の腕を掴み、心配そうに顔をのぞき込んでいた。アキは虚ろな頭で何とか猛に大丈夫だと頷いた。猛の顔に怒りがパッと浮んだのが分かった。次の瞬間視界が猛の背に覆われる。猛は既に母よりも背が高くなり、農業の手伝いと空手の鍛錬によって大人びて引き締まった身体になっていた。


「お母さんに、酷いことを言わないでください」


 猛が冷静な声で言う。身体はもう大きいけれど、声はまだ変声期を迎えておらずキンと高い。猛と文子の間の空気がピリピリと緊張しているのが分かった。だが、その刺さるような空気がアキを襲うことはない。猛の背に庇われながら、アキは自分の心拍が徐々に速度を落としていくのを感じた。


 文子の隣にいた人形は、いつの間にか姿を消していた。


「ずうずうしい親子だ。早く出て行け」

 吐き捨てるような文子の声が聞こえ、苛立ちを雪に刻みつけるような足音が遠ざかっていく。アキの身体から力が抜け、猛の腕にしがみついて体を支えた。


「ごめんね」

 こんな姿を猛に見られたくはなかった。そう思いながら、両足に力を込める。


「あんまり酷いこと言われたら、言い返して良いと思う」

 怒りを声に滲ませて猛が言う。アキは首を横に振った。


「もめ事は起こしちゃ駄目。私達は、ここにいさせて貰っているんだから」

 そう、呟いた。声が白く散っていくのを眺める。そうだ。自分達はここにいる限り、施して貰う存在なのだと、改めて思った。

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