親も子供と成長するんだね

 錬の告白に驚いて、佳音は夫の顔を見上げた。錬は固く目を閉じていた。高校時代は、会社を継ぐことを自分の義務として受け止めていたし、進学先も経営を学ぶ学科だった。しかし空白の時を経て再開した錬は、ただひたすらにパンの世界を探求するパンオタクに変貌を遂げていた。そのオタクぶりは呆れる程だ。何を食べてもパンの具材にならないか考えるし、どんなことでもパンに例えて考える。


 そんなパンオタクぶりを発揮していながら、どこかでそれを諦めて、元のレールに戻るかどうか迷っていたなんて。


 少しも気付かなかった。


「俺、このまま親父達に何も返さず自分の夢を追いかけたら、後悔すると思うんだ。佳音は急に方向転換することで迷惑掛けるかも知れない。いきなり社長になれるはずはない。平社員からの出発になるだろう。給料だってめっちゃ安いかも知れないし、一杯勉強しなきゃなんないから今までみたいに家事分担もできないかもしれない」


 錬はやっと目を開けた。


「それでも、ついて来てくれるかい?」


 小さくて少し離れた両目を佳音は真っ直ぐに見つめて頷く。しかし、少し首を傾けて気がかりなことを問いかけた。


「パン屋さんになる夢を諦めたら、それはそれで後悔しない?」

 錬の両目が大きく揺れた。錬は視線を斜め上に逸らして、レンジフードから右手を離した。


「どっちも諦めない方法って、あるんじゃないかと思う」

「社長さんしながらパン屋さんするってこと? それは流石に無理だよ」

 何を言っても否定しないでおこうとは思っていたが、思わずきつい口調でそう言ってしまう。錬は困ったような視線を返した。


「それは、分かってるよ。だから、今は一端諦める。でも、いつか。三人の内の誰かに次の世代を任せてから」


 錬は佳音の腹とリビングの方を指さした。佳音は思わず笑ってしまう。

「第二の人生で?」

 錬は照れくさそうに鼻の頭を掻いた。


「その時には、髭を生やしてさ。……髭親父の薪釜パン屋。いいと思わね?」


 熱い夢を閉じ込めてしまう悔しさや悲しさが、ふざけた言葉の裏側に滲んでいるような気がした。一緒に笑おうとしたけれど、口の端が歪んでしまう。思わず視線を床に落とす。油が跳ねている。後で拭き掃除をしなければと思った。このマンションからはもうすぐ引っ越さなければならないだろう。義父の会社を継ぐのならば、当別に帰った方がいい。


 どこか冷静に考えている自分がまた悲しい。自立した人になるために、自分の道は自分で選んで進む。そう思っているから、錬の選択がどこかで他人事のように感じてしまうのだ。全身で正人を受け止めようとする美葉のようにはなれない。


 佳音は目を上げて錬を見つめる。手を伸ばそうとして、やめた。代わりに、錬に向かって首を傾けた。


「ちょっと、屈んで」

「ん?」

 錬は少し戸惑い、膝を曲げた。キリンが首を折って餌を求めている様子を連想し、少し笑った。


 坊主頭に手を乗せる。昔はおしゃれに気を遣っていた方なのに、パンオタクになってからはずっと坊主頭だ。この髪型も、変わるのだろうか。


「よく決意したね」


 よしよし。心の中で呟きながら、チクチクする頭を撫でる。錬が、吹き出すように笑った。

「……大地のお陰で、ちょっと成長した」

 錬の言葉に、頷く。


「そうだね。子育てしてたら、親も育つよね」

「これ以上、背、伸びたら困るけどな」

「天井にぶつかっちゃう」

 佳音は小さく声を上げて笑った。 

 

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