実家に帰ったはずの妻がザンギを揚げている

 お婆ちゃんの家に泊まる予定を変更したら、大地は泣いて怒った。けれどザンギを作ると言ったら途端に機嫌が良くなって、今は大人しく電車のおもちゃで遊んでいる。


 ザンギ好きは遺伝だと、油からザンギを引き上げながら佳音は思う。行きつけの定食屋では、錬は必ずザンギ定食を頼む。聡もザンギ好きで、栄田家では週一度ザンギが夕食に並んだという。お陰で錬はヒョロヒョロした体格のくせに中性脂肪の値が異常に高い。そういった食生活も膵臓癌の原因になったのだろうから、揚げ物は控えないといけない。けれど、今日は特別。


 玄関のドアが開く。いつもよりもゆっくりと、厳かに。


 今朝方「頭冷やすまで実家に帰ります」と啖呵を切った妻が予想外に帰ってきた事への複雑な感情と、ショウガやニンニクや醤油の醸し出す香ばしいハーモニーへの喜びが、そうさせたに違いなかった。佳音は神聖な儀式の為に開けられたようなドアに視線を向けず、衣を付けた鶏肉を鍋に投入していく。油が跳ねる華やかな音が台所に満ちる。錬は足音を立てずに近寄って、鼻をヒクヒクと動かした。


「お帰り」

「た、ただいま」


 言葉を交わしながら、数を数える。三十秒経ったらひっくり返し、もう三十秒経ったら油から引き上げる。ジューシーな仕上がりにするために、二度揚げをする。この手順は遵守すべし。頭上のモジモジした気配は無視する。


 全てのザンギを引き上げたら、次の鶏肉を投入する。その前に、一度手を止めた。


「錬が決めたことなら、応援する。でも、一時の感情に流されず、しっかり考えてから決めて」


 そう告げて、再びザンギを揚げることに意識を向ける。生の肉から出る水分が油とぶつかる音を聞きながら、三十秒数える。暫く揚げ物はしない。多くて月に一度にしよう。錬の中性脂肪を下げなくてはならない。


「……心配掛けて、ごめん」

 錬の呟きが聞こえた。


 一通り軽く火を通したら、少し時間をおく。その間に、表面から内側にじっくりと火が通っていく。仕上げに高温でからりと揚げる。その為に佳音は火を強めようとした。しかし、錬が佳音の手を遮り、コンロの火を止めた。


「ちょっとだけ、話、聞いて」

 頼りない声に顔を上げると、錬は両眉をハの字に下げていた。


「佳音が怒るのも分かるんだ。だけど俺、この状況を黙って見てる事、できない」


 ポロリと溢れる声を受け止めるように、佳音は頷く。


「……父さんと母さんは、俺がいなくなってからずっと探してくれてた。受け取る相手がいないのに仕送りも続けてくれてた。次に会うときは遺体になってからかも知れない、それでも、何も手がかりがないままでいるよりましだ。……そんなこと、考えてたって、言ってた」


 佳音は頷いた。再会した時に、聡がそう言ったのだ。目を真っ赤に染めて。錬は右手を換気扇のフードに置き、その腕に身体を預ける。そして、硬く両目を瞑った。


「もしも、大地がいなくなったら俺、頭がどうにかなると思う」

「錬……」

 思わず名を呼ぶ。錬の顎がぐっと大きく動いた。奥歯を噛みしめたのだろう。


「大地が生まれて、自分がどんなに酷いことをしたのか、やっと分かった。俺は親不孝だ。本当に、馬鹿な息子だ。……だから、このままパン屋を開業していいのかって、ずっと迷っていたんだ……」


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