美葉が正人に伝えられないでいること

「美葉さん? 悩み事、あるんですか? どうして僕に相談してくれないんですか……」


 正人がシュンと肩を下げた。いや、あんたの事だよ。相談したくても出来ないから悩んでいるんだよ。美葉は心の中で呟く。正人の隣で悠人が身を乗り出し、笑顔を向けた。


「言ってみな。みんなで考えれば解決策が見つかるべさ」


 みんなで考えて解決策を見付けるよう内容ではない。そう思って口ごもる。けれど、確かに二人きりの時に話を切り出すよりもいいのかも知れない。もしも正人が感情の統制を失ったとしても、みんなが支えてくれるだろう。そしてこんな機会は、期日までにもう来ない可能性が高い。美葉は顔を上げ、身体の向きを変えて正人を見つめた。

 

 正人は切れ長の瞳を見開き、戸惑うように首を傾けた。美葉は大きく深呼吸をしてから、丁寧に、でも率直にそれを伝えた。


「お爺さんから、手紙が来たの」

「お爺さんから、美葉さんに?」

 美葉は首肯し、続ける。綱を渡るように、慎重に言葉を選ぶ。立ち止まってはいけない。慎重に、慎重に言葉を続けていかなければ。そう、思う。


「正人さんのお父さんが、十二月五日に帰国するの。東京の、正人さんの実家を取り壊す手続きをしに。それでね、必要なものがあるなら取りに来て欲しいっていう内容の手紙が、お爺さんのところに届いたの」


 言葉にしてしまえばとても単純で、短い文章で済む要件だった。けれど、重たい石を動かしたような疲労感が美葉の背に広がる。


 正人は息をするのを忘れたように硬直している。美葉はただ黙って、正人が美葉の言葉を理解し、解釈し、答えを出すのを待った。健太が口を開きかけたが、アキが小さく首を振って制した。それがありがたかった。軽々しく「行って来いよ」なんて言われたら、正人は瞬時に反発し、「行かない」と言ってしまう。そして吐き出した自分の言葉に固執してしまうだろう。正人には、出来るだけ冷静に考えて欲しかった。


 けれど、この話題で「冷静に」というのは無理な要求だった。


 正人は逃げるように立ち上がり、大股で窓辺に向かった。そこから脱出したいと願う避難民のように、窓のサッシを掴んで額をガラスに打ち付ける。木製のサッシに囲まれた硝子が音を立てて揺れた。美葉も立ち上がり、足音を立てないように用心深く傍に向かう。正人から少し離れて立ち、自分も窓に頭を付けてみた。冷気に晒されたガラスは、氷のように冷たかった。


「行きたく、ないです……」

 正人が、掠れた小さな声で呟いた。


「うん」

 美葉も、同じくらい小さな声で応じて、頷く。正人は苦しげに、息を吐いた。


「でも、行かないのも、怖いです……」

「うん」


 正人の肩が小さく震えている。美葉は手を伸ばし、そっと背中に触れた。


「美葉は、どうして欲しいんだい?」

 用心深い声で、悠人が問う。正人の心も、美葉の心も同時に労ってくれている。そう感じて涙が出そうになり、微笑んでそれを隠した。


「正人さんに、決めて欲しい」

 正人を傷つけないように、できるだけ静かに言葉を吐き出した。瞑目し、唇を噛みしめている横顔を、見つめる。


「どんな答えでもいいから、正人さんが選んで欲しい。一杯悩むだろうけど、私が正人さんを支えるから、逃げずに答えを出して欲しい」


 カシャン、と窓が揺れた。正人が額を強く押しつけたのだ。手の平に伝わる振動が大きくなり、正人の喉から嗚咽が漏れる。


「すいません……」

 涙声で呟く。


「こんな僕で、すいません……」


 美葉は思わず正人の身体に腕を回し、強く抱きしめた。自分の存在を謝って欲しくなどなかった。自分は随分酷な事を言ったのだと、思い知る。


 母が死んだ家に帰る。憎しみを抱いている父に会う。それをするかしないかを決める。


 正人が最も辛いと思うことから、逃げるなと言ったのだ。謝るのであれば、そんな事を言える自分の方だ。


 バン、と大きな音がした。振り返ると、健太が立ち上がっていた。机に両手を突いている。その手を離し、大きな身体を反らせるようにまっすぐ立って、大きな口を開けて笑う。場違いな笑い声が体育館の天井に跳ね返るのを眺めるように、アキが上を見上げた。一頻り笑った後、健太は大きな手で自分の胸を音がするくらい強く叩いた。


「じゃあ、俺らは、美葉を支える。正人がどんだけ動揺しても、美葉は絶対にお前のそばを離れない。俺らは美葉がいつでも元気にお前を支えていられるように、美葉を支える。だから、心配すんな」


「たまにはいいこと言うじゃん」


 佳音が健太の尻を叩いた。力加減が全くなされていなかったらしく、顔をしかめて尻をさする健太の隣で、アキも遠慮がちに頷いた。悠人も白い歯を見せて笑い、何度も頷く。正人は身体の向きを変えて、ゆっくりと順番に視線を送り、顔を歪ませた。ぼろりと大粒の涙が溢れ、頬を伝う。


「水分補給しないと、干からびちゃうね」


 親指で目の端を拭った美葉は、正人の手を引いた。仲間の輪の中に、引き戻すために。


 

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