健太とアキが抱えているもの-2

 はっとアキの唇から息が漏れる。健太がテーブルに手を置いてビールを手放した。ギュッと顔をしかめている。残酷な宣言をしてしまった佳音も、苦しそうに目を伏せた。正人がぐずっと鼻を鳴らした。涙と鼻水が決壊している。美葉は無言でボックスティッシュを前に置く。そこから悠人がすっと一枚引き抜いて目頭を押さえる。


 伸也は同級生の和夫を尋ねてよく谷口商店に来ていた。長身で、農業家らしく日に焼けた朗らかな人だ。健太とは姿形も性格もよく似ている。若い頃は当別のマドンナと称された美葉の母に恋い焦がれていたらしい。その思いが叶わなかったので、美葉が健太の嫁になればと思っていたようだ。美葉の前で健太のことを「未来の旦那」とよく呼んでいた。


 そんな明るい人が、元気な人が、十年掛けてじわじわと人格を壊して命を奪うような病に罹るのだろうか。


「……どうしたら、一番、いいの……?良くならないにしても、悪くならないようにする方法は、ないの?」

 縋るような視線を、アキは佳音に向けた。佳音は考え込むように視線を下げた。多くの専門知識の中から一番適したことを懸命に探し出しているようだった。暫くして、小さく頷いてからアキに視線を戻した。


「まず、認知症外来に行って検査をして、診断をしてもらう。進行を遅らせる薬を飲みながら、生活習慣を整えて、適度に身体を動かして、頭も出来るだけ使う」

 溜息をついてから、もう見えなくなってしまった姿を探すように、視線を外に向けた。


「……やることが無いんじゃないかな。だから犬の散歩に何度も行くんじゃないかな。農閑期に入ってしまったから、するべき仕事がないでしょ?  除雪の仕事も、今はしてないんでしょ?」


 健太が頷く。


「義足になってから、クラッチが踏めなくなって重機を扱えなくなった。うちは農閑期は俺の除雪で賄ってる」

「ビニールハウスを使って、野菜を作ったり出来ない? 悠人さんの農場では、ほうれん草栽培を始めたよ」


 健太は渋い顔をアキに向けた。


「油代が高くなったから、加温が必要なハウス栽培は割に合わないさ。生産コストが嵩みすぎる」

「いやいや、加温しないんだ」

 悠人が手を大きく横に振った。


「加温しない? それじゃ、温度が低すぎて出荷サイズに到達しないベさ」

 健太が訝しげに首を傾げると、悠人は得意げに人差し指を立てた。

「それが、ビニールカーテンで保温して、夜間は高発泡ポリエチレン断熱シートで断熱してやれば加温しなくても育つのさ。マイナス二十度の日でも、保温すればマイナス十度を保てる。したら冷害も避けられるベ。三月には出荷サイズに達するのさ。最後にハウスを開放して寒気に曝す寒締め操作をすれば、十度以上の糖度がある甘いほうれん草が出来る」

「そんな方法があんのかい」


 健太は身体を仰け反らせた。アキの瞳に微かな希望が映る。


「私もそのほうれん草のお世話をしているから、やり方は分かる。こまめに温度管理をしなきゃいけないから大変だけど、長く農業をしていた伸也さんならきっと大丈夫」


「良かった」

 正人がまた鼻を啜る。美葉は積み上げられたティッシュの山を見て苦笑した。


「認知症の人は、新しいことを覚えるのが苦手なの。手順を無理なく覚えられるように、工夫が要るよ」

「説明書みたいなの、書いたらいい?」


 アキの問いに、佳音は首を横に振る。


「文章を読み解くのも苦手になるの。絵や短い言葉で伝えたい事を示したポスターを、目に付くところに貼り付けるといいよ」

「流石、専門家だね」


 美葉は思わず感嘆の声を上げる。佳音はふふ、と得意げに笑った。


「これは、町作りに取り入れて欲しいポイントだな。認知症って特別な病気じゃないよ。平均寿命を迎える頃には半分の人が認知症になるんだから。白髪が生えるのと同じくらい、普通のことなんだよ。そして四人に一人が高齢者。当別は高齢者比率が高いから、もっとかもね。だから、どんな人でも安心して生活できるような工夫が必要よ」

「そっか……」

 すとんと大きな物が胸に飛び込んできたように感じて、美葉は思わず胸に手を当てる。

「美葉さん、大切な仕事が出来ましたね……」

 正人はずずっと鼻をかんでからそう言った。


 悠人が、大きな溜息をついた。視線を向けると、何か難しい顔で視線を床に向けている。


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