冬の釣り
「
芋焼酎のお湯割りを傾けながら安弘が言う。
「いいね。行こう行こう。もうすぐ子守で忙しくなるからね、今のうちに遊んどかなきゃ」
波子が身を乗り出す。波子は介護していた姑を看取り、女手一つで切り盛りしていた農地を悠人に貸し出し、身軽になった。その波子に釣りを勧めたのは安弘である。波子は日本海沿岸の港町出身だから、魚の習性をよく知っている。
「やっさんも行こう」
こういう展開を予想していた保志は肩を竦めた。
「枝幸なんてめっちゃ寒いやん」
オホーツクの海を思い浮かべただけで鳥肌が立つ。枝幸は最北の地稚内に近い漁村だ。波子は丸い頬を綻ばせて笑う。
「寒い時期の魚の方が美味いんだよ!」
「魚屋に並んでる奴で充分や」
「明後日天気が良くて気温も高い。この日に決定だね」
人の意見を無視して話を進める波子を安弘が笑って見ている。何かと理由を付けて断ろうと思うが、竿がしなる感覚を思い出すと気持ちが浮き立ちもする。
もう釣りをする事など無いと思っていたがと、苦笑いが溢れる。
幼い輝季を連れて、琵琶湖にボートを浮かべ、バス釣りをした。普段はぼんやりとしている輝季だが、ルアーを操るのは意外と上手かった。
『あそこに魚がおる』
湖面を指さして輝季はよくそう予言した。
『何で分かる?』
『あそこは影になってるやん。魚が安心しておれる』
何も教えていないのに、魚が居着くポイントを言い当てる。魚の気持ちが分かるのだと笑っていた。知的な発達が遅れている懸念があり、幼稚園や学校の教諭から診断を受けるよう何度も進められていた。小学校に上がる時には支援学級を勧められた。全てを一蹴して普通学級に通わせていた。学校の勉強について行けないのは努力が足りないせいだと叱責したこともある。
向き不向きがあるのだと、その時思った。学校の勉強は輝季には向かない。だが釣りの才能はある。人よりも偏っているだけだ。知的障害などでは無い。そう、思い込もうとしていた。
実際には、周囲の言う事が正しかったのだろう。成績が悪く、運動も出来ず、何をしても鈍臭い。そんな輝季は虐められ、それを苦にして、命を絶った。中学一年の、二学期初日のことだった。
大学ノートに、「ぼくを殺した人間。ぜったいにゆるさない」と、虐めた級友の名を書き連ねていた。
『お父さん』
級友の名に続いて、そう、書いてあった。
現実から逃げるように当別に辿り着き、根を下ろした。
贖罪などする気は無い。恨まれ続けて生きるのだと、決めている。
「楽しめる内は、楽しむべきだ。なぁ、やっさん」
安弘の言葉で、我に返る。湯呑みを傾け、焼酎を啜る。温くなった焼酎が舌に染み、鼻に芋の香りが抜ける。
「そうや。楽しまな」
頷いて、これで寒空の下釣り糸をたらすことになったと眉を寄せた。
もしも輝季が背中で恨みがましく自分を見つめているのなら、共に楽しめばいいと願う。
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