母と弟の部屋

 玲司の頬は弾力があって、うっすらピンクで、まるで桃みたい。ぷくりと人差し指でつついたら、握りこぶしを振ってキャッキャと笑う。


 可愛い。


 桃花は心からそう思う。それなのに何故「死んじゃえばいいのに」なんて言えたんだろう。あれは夢だったのかな。けれどヒリヒリ痛む手首の傷が、告げる。『お前は弟の死を願えるような恐ろしい人間なのだ』と。


 自分の身体は寄生虫に巣くわれている。寄生虫は脳の中まで入り込み、望みもしない行動をし、言葉を吐く。そんな感覚なのだ。生きている時間の半分くらい、その寄生虫に支配されている。あの後、下腹部が痛んでトイレに行くと、どろりと経血が流れた。それと共に寄生虫は眠りにつき、正気を取り戻した。


 腕から流れる血を拭き取って消毒していたら、母親が包帯を巻いてくれた。途中から「ごめんね」と言って泣き出してしまった。何で謝るのか、分からなかった。イライラしたのも、腕を切ったのも、暴言を吐いたのも、自分が勝手にやったことだ。玲司が泣くのは当たり前だ。まだ、赤ちゃんなんだから。しかし、寄生虫に支配されている時期は耳が過敏になって、普段気にならない音でも、金属片のように脳天を突き刺す。玲司の鳴き声は剣山となって体中をグサグサと刺し貫くのだ。


 玲司の柔らかいぬくもりは、幼い日を思い出させる。


 山の中にポツンと一軒だけ建つ古い家。いつも母親と二人だけだった。そこはとても安全で、自分を脅かすものは何もなかった。母の愛は自分だけに向いていた。


 あの頃に帰りたい。それが駄目なら、山の家に行きたい。一人でそこに籠もっていたい。けれどもう、あの家は取り壊してしまった。


『必要ないからね、もう』


 ヒステリーを起こす度にそこに避難していた母は、ちょっとだけ丸くなった。かっかしやすい性格は変わらないけれど、八つ当たりはしなくなった。大人になったよね、と思う。自分や旦那と喧嘩しなくなったから、避難場所は必要ないんだろうな。


 母親にはいらなくなったかも知れないけど、今の自分には避難する場所が必要なんだ。電磁波フィルターを張り巡らせただけの部屋では頼りない。もっと厳重に色んな刺激から自分を守ってくれる場所が欲しい。荒れ狂う自分を閉じ込めておける場所が欲しい。


 入り口のドアが開いた。顔を上げると、母親が立っている。左手にマグカップ、右手にコーヒーポット。どうやってドアノブを回したんだろう。ドアを開けたのは絶対足だ。そう思うと自然と頬が綻ぶけれど、彼女は笑わなかった。


 一瞬大きく目を見開いた。視線が自分と玲司を往復する。


 足早に作業机に向かい、散乱するビーズやらピンやらの間に乱暴にマグカップと珈琲サーバーを置くと、玲司を抱き上げた。ぬくもりが去った胸元や太ももが、彼女の意図を教えてくれた。


 玲司に危害を加えると、思ったのだろう。


 桃花はそっと唇を噛んだ。『死んじゃえばいいのに』。そんなことを、言ったから。だから、もう、玲司に触れる資格がなくなったんだ。


「どうしたの?」


 母親の頬に繕うような笑みが浮ぶ。その笑みから視線を逸らして立ち上がる。


 ここは、母親の作業部屋で、玲司のベッドルーム。

 自分が立ち入っていい場所では、ないんだ。

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