無骨な文字で書かれた詩編
樹々に戻ると、正人が広げたままの図面を眺めていた。美葉は隣に立ち、右腕にしがみつく。
「わあ、冷たい。美葉さん、上着着ないで外に出たでしょう」
大袈裟に驚いてから、咎めるような視線を向けて来る。
「風邪引いちゃいますよ」
正人は時々、いや、かなりの頻度で過剰な程心配性になる。心がむずむずこそばゆくなり、腕に力を込める。さっき浮んだ非難の念は、水に流す。正人が向ける特別な気持ちは、自分だけのものだと分かっているから。
「命の町プロジェクト、本格始動ですか?」
正人の問いに、美葉は頷いた。そして、溜息をつく。
「難しい仕事を引き受けちゃったよね。っていうかいつの間にか巻き込まれちゃったんだけど」
「大変なら、断ってもいいんじゃないですか? 正式な依頼なら、正式に辞退しても」
「そういう訳にも行かない。口挟んじゃったしね」
医療法人と作り上げたたたき台に『ありきたり』とケチを付けたのは自分だ。そこから、皆が思い思いの意見を出し合い、町に詰め込むものが膨らんで行った。保志が敷いたレールをおかしいと指摘し、みんなが色んな行き先を示して方向性が混沌としてしまったのだ。入り交じったみんなの思いを整理し、現実的な形にするのが、自分が背負ってしまった役目なのだと思う。
「そもそも、やっさんは何でこの町を造ろうと思ったんだろう?」
予てからの疑問が、愚痴っぽく口を突く。
正人は自分の顎に手を置いた。チラリと見上げると、難題に向かう哲学者のように眉を寄せている。美術室にあった胸像のようだ。確かジュリアーノ・デ・メディチとかいう名前だった。線の細い、少し神経質そうな美青年。
正人はふと息をつき、顎から手を離して、A0用紙の片隅に触れた。美葉はその繊細な指先を見つめる。
鉛筆で書かれた文字の痕跡が、そこにあった。
保志らしい、無骨で不揃いで強い筆圧の痕跡は、乱雑に掛けられた消しゴムでは充分に消し去ることが出来なかったらしい。美葉は身をかがめ、その文字の痕跡を凝視した。
「産ま……れた、命を……、金……あ、鐘?が?」
正人が胸元のポケットから鉛筆を取り出し、厳かな手つきで筆跡の上を塗りつぶした。斜めに、柔らかい力で。
するとそこに、消し去ったはずの無骨な文字が浮かび上がる。
産まれた命を 鐘の音が迎え
町が支え 町を支え
育ち 育み
守り 守られ
旅立つ命を 鐘の音が見送る
美葉は身をかがめたまま、声を出さず目でその文字を読んだ。隣で正人も、同じ事をしているようだ。
がさつで、無骨で、下品だと感じるほど傍若無人な保志と詩編は、どう考えても結びつかない。けれど、間違いなくそれは保志の文字であった。
美葉は急に罪悪感を感じて身を起こす。重大な秘め事を覗いてしまったような、そんな感覚に襲われて、その文字を解読してしまったことを後悔した。正人も身を起こし、深く息を吐いた。切れ長の瞳を細めている。どこかずっと遠くを眺めているような、そんな視線だ。
「僕がやっさんから町の話を聞いたのは、節子ばあちゃんのお葬式の後でした」
正人の視線の先には、その日の光景が見えているのだろう。美葉は節子の葬式には出席できなかった。京都にいたし、仕事も立て込んでいた。親族では無いから、勿論忌引きの対象にはならない。遠く離れた場所で、大切な節子ばあちゃんの死を悼んでいた。
正人は、遠い記憶を探るように目を閉じた。
「……皆が頼りにしていた節子ばあちゃんが、認知症で子供みたいになって、赤ちゃんみたいに安心しきって亡くなっていくのを、皆が支えて見送った。この事を、自分たちだけのものにするのは、勿体ない」
想起した記憶をゆっくりとした言葉でたぐり寄せ、それを確認するように、正人は小さく二度頷いた。
「人が産まれて、死んでいく。今、そこだけが社会から目隠しされている。でも、一番大切なことで、それが見えていたなら、簡単に命を捨てるようなことは、しなくなるんじゃ無いかな……。確か、そんな事を、言っていました」
正人は目を開いた。美葉はその瞳にはっと息を飲む。瞳の端にうっすらと、涙が浮んでいたからだ。
「その時僕は、やっさんは何かとてつもなく大きな悲しみを背負っているんじゃ無いかと思いました。どうしてそう思ったのか、根拠は全くないのですけど……」
親指の先で、正人は目尻を拭った。保志と悲しみなんて、どう考えても結びつかない。けれど、一度書かれて消された詩編は、正人の疑問を裏付けるもののような気がした。
保志は本来、ゼンノーという歴史ある工務店を継ぐべき人間だ。その立場を放り出し、北海道支店と称して中古住宅のリフォーム業を細々と行なっている。何故に当別にやって来て、根を下ろしたのかは分からない。今では、正人や美葉に仕事を仲介するのが主な仕事になっている気がする。そんな保志がどうしてもこだわる、「命の町」。
産まれた命を 鐘の音が迎え
町が支え 町を支え
育ち 育み
旅立つ命を 鐘の音が見送る
美葉はもう一度、その詩編を黙読した。
正人が胸ポケットから消しゴムを取り出し、自分が塗った鉛筆の後を丁寧に消していった。
「やっさんは、知られたくないんだと思います。自分の背負っているものを。だから、見なかったことにしましょう。この事は、美葉さんと僕の胸に仕舞っておきましょう」
美葉は頷いた。
「でも」
頷いたけれど、見なかったことにはしたくないと思った。
「でも、想いは受け取った。やっさんの想いを、形にする」
言霊、という言葉が頭に浮んだ。言葉は力を持ち、放った者の力になる。美葉は自分の内側に、火が灯ったと感じた。今はまだ、小さな火だ。それを大きな炎に育てていかねばならない。
最初の状態よりもずっと綺麗に消え去った文字の痕跡を見つめながら、美葉は大きく頷いた。
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