湧きあがる不安
じゃあたのむな、ガハハハハ。と言いつつ帰っていった保志を見送り、美葉は溜息をつく。大きな岩が加速度を上げて転がり出したような、そんな感覚が胸に沸き起こる。
落ち着かない気持ちを持て余し、そのまま何となく歩き始めた。
根雪になったばかりの雪は滑る。転ばないよう気をつけながら、歩を進める。ワクワクするような期待も、押しつぶされそうなプレッシャーもない交ぜになって胸に押し寄せてくる。
町の設計をするのであれば、新規の仕事はしばし止めなければならない。分譲地の設計も同時に入ってくるだろうし。すでに、悠人は奥まった場所の角地に家を建てると決めている。アレルギーや電磁波の対策を施した家だ。今回シックハウス症候群対策を施したはずの新築校舎でアレルギーを起こした事を考えると、完全な無添加住宅にしなければならない。
そう考えてふと、先日の桃花の姿を思い出した。
正人の指を咥えたまま向けられた上目遣いの視線は、切り刻もうとするように鋭かった。そして、女の色香を感じた。どちらかというと後者の方が、美葉には堪えた。
桃花の事は幼児の頃から知っているのである。その少女が恋人の指を咥えて女として威嚇してきたのだ。その事実に愕然とする。
桃花が正人を心の拠所にし、頼っているのは知っていた。それが淡い恋に変化したことも感じていた。恐らく、自分の存在がそうさせたのだろう。桃花にとって自分は、大切な人を奪った憎い女なのだ。
「だからってさ、指咥えられたままになってるって、何なの」
思わず地面の雪を蹴ると軸足がつるりと滑り、蹈鞴を踏む。正人が桃花を邪険に出来ないのは、分かっている。しかし、いや、だからこそ線引きは必要なのだ、と思う。
「まー、無理だよな、正人さんには」
優しさをそんなに簡単にコントロールできないからこそ、正人なのだから。
神社の方から、伸也が歩いてくる。その後ろを、すごすごと愛犬の幸が付き従っていた。犬の散歩で人間が先頭立って歩いているのって珍しいなと思いながら、足を止めた。伸也はぼんやりと
そう言えば、朝も何度か散歩をしている姿を見た。
今日何度目の散歩なのだろう。胸に湧いた疑問を隠し、笑顔で挨拶をしようとしたが、伸也は無言で美葉の横を通り過ぎた。幸はピクリと顔を上げ、助けてと言わんばかりにキュンと微かな声を上げたが、伸也は虚ろな瞳を空に向けたままであった。
視界に、赤い乗用車の姿が見えた。かなりスピードを出しており、一時停止を眼前にしても減速する素振りを見せない。伸也はそのままの速度で歩いて行く。
轢かれる。
美葉は手を伸ばした。その動きはスローモーションのように遅く、伸也には届かない。心臓の音だけが、やけに大きく耳に響いた。
「伸也、危ねぇぞ」
伸也の手を引いたのは、駆け寄ってきた和夫だった。美葉はほっと胸をなで下ろす。乗用車は当然のように一時停止を無視して通り過ぎていった。
「ああ?」
眠たげな視線を伸也は和夫に向けた。いつも穏やかな父親が珍しく眉をしかめている。
「お前、ボーッと歩いてたら轢かれるぞ」
「はあ?」
伸也はどうやら自分に起こっていた危機を未だ関知していないようだった。和夫は呆れたように息をつき、腕を放す。
「気をつけろよ」
「おお」
伸也は軽く手を上げて、通りを渡っていった。このまま真っ直ぐ歩いて行き、三十分ほど先の交差点で折り返して戻ってくるだろう。伸也の散歩コースは決まっている。美葉は和夫の後ろで伸也を見送った。
「……認知症になってねぇべか」
和夫の呟きに美葉は心臓を掴まれたように息を詰めた。先ほど去来し、まだ五十代だからと否定した考えそのものだったからだ。
「まだ、若いよ」
和夫は伸也と同級生だ。嘗てこの小学校で同級生だった間柄なのである。父と同じ年の、幼なじみの父親が認知症だなんて。そんなこと、考えたくも無かった。
「節子ばあちゃんも、あんな風だった」
和夫は伸也の背中よりもずっと遠くを見つめてそう言った。節子は佳音の祖母で、四年前に亡くなった。亡くなる一年ほど前から認知症の症状が現われていたそうだが、京都にいた美葉はその姿を知らない。
人は年を取るのだ。ふと明確にそんな言葉が頭に浮んだ。恐怖によく似た霞に喉元を締め付けられる。
保志の頭に白髪を見付けてからかっていたのは一昨年のこと。今はもう、からかうなど意味を持たないほど白髪交じりの頭になった。和夫は血圧の薬を飲み始めた。
親は年を取る。自分もそうだ。佳音はもうすぐ三児の母になるのだし、健太は実質小五の父親だ。命の時は確実に進み、世代は交代するのだ。うかうかとしている場合では無い。
美葉は手紙を思い出す。
何時までも棚上げしている場合では無いと思うと胃がキリキリと痛んだ。
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