ぶつける相手のない疑問
リビングでは、大人達が和やかな飲み会を開いている。悠人も誘われたが、そそくさと部屋に戻った千紗の様子に違和感を感じて、断った。
夫婦の部屋はシングルベッド二つとベビーベッドを無理矢理押し込めたような状態になっていた。玲司の服やオムツなど育児用品にも占拠され、かなり狭い。そんな事は知らぬとばかりに寝息を立てる玲司を、千紗は見つめていた。最近口数が減り、顔に疲れが張り付いている。それが気になっていた。
「玲司はよく寝てるな」
声を掛けると、小さく頷いた。上の空であることは、雰囲気で分かる。
「何かあったのかい?」
問いかけると、千紗は視線を落として溜息をついた。沈み込むような、重たい溜息だった。千紗は自分の腕を抱きしめ、小さく身体を丸めた。
「……桃花が、怖いの」
「え……」
意外な言葉に、理解が及ばない。桃花が怖い。大事な自分の娘が、怖い?
「最低だよね」
口の端を歪めて、両足をベッドの上に引き上げる。更に身体を小さくした千紗の隣に、悠人は座った。
「何か、あったのかい?」
もう一度同じ言葉で問いかけると、千紗は腕の中に頭を沈めた。
「この前、桃花が玲司のこと、死んじゃえばいいって、言ったの」
「死んじゃえ……?」
鸚鵡返しに言葉を連ね、眉を寄せる。自分の腕の中で、千紗は小さく頷いた。
「生理前でイライラしてたんだと思う。リストカットした日だよ」
「……イライラしてただけだよ。本心じゃ無い」
「分かってる……。でも……」
腕に力がこもり、千紗の身体は更に小さくなる。
「イライラする時期はまたすぐにやってくる。その時、何かのタガが外れたら。そんなことを、考えちゃうの。桃花が玲司の傍に来ると、鳥肌が立つのよ」
「千紗……」
悠人は千紗の肩を抱き寄せた。だが千紗は更に身体に力を込め、小さく、小さくなろうとする。本当に消えてしまいそうだと感じて、千紗を抱く手に力を込めた。
「山の家、取っておけば良かった。本当に避難が必要なのは、きっと今なんだよ……」
小刻みに震える千紗の声を、唇を噛んで聞く。
無力な赤子を脅威から守ろうとする本能が、実の娘を敵だと認識してしまったのだろうか。その本能を否定することはできない。かと言って、桃花を叱るわけにも行かない。桃花が本心から玲司の死を願うはずは無く、傷つけるつもりもない。だが、感情の激流にのまれている時の桃花は、何をするか分からない。それも、否定しがたい事実なのだ。
「気が付いたら、カレンダーを見てる。あと何日だ。あと何日したら桃花が荒れ始める。そう思うだけで身体が震えてしまうの。……酷いよね。桃花だって辛いのに。今の私には、桃花が玲司を傷つける存在だとしか、思えない」
万が一にも桃花に聞かれないようにだろう。千紗の声は小さく震えて、不明瞭だ。じっと耳を澄まして聞くので、息遣いまで胸を刺す。
このままではいけない。
悠人は千紗の身体を自分の方へと引き寄せる。
「一端、桃花と距離を取ろう。山の家は無いけど、実家がある。お義父さんもお義母さんも、玲司を連れて帰るのは大歓迎だろう?」
「そんなことしたら、桃花が傷付くよ……」
のろのろと首を振り、千紗が言う。
「家族なんだから、わかり合えるよ、いつかは。桃花の事は、俺がちゃんと見ておくから。だから今は、自分の心を守って欲しい」
悠人の言葉に、千紗の泣き声が重なる。声を殺してしゃくり上げる妻の身体を抱きしめる。
何故だと、
家族はみんな愛し合っている。それなのに何故、こんなにも苦しまなければならないのだ?
ぶつける相手の無い問いに、悠人は唇を噛みしめた。
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