恍惚の表情で左手を見つめる
桃花が帰ってきた。
コットンパールにTピンを刺してアクセサリーパーツを作っていた千紗の心臓は、鼓動を早める。手元を注視していた視線をそっと上げ、その気配を伺う。全身の毛穴が、何かの探知機になったようにピリピリと痺れた。
桃花は乱暴に玄関のドアを閉め、荒い足音を立てて階段を上って行く。大音量で自室のドアを閉めた後、バスンと大きな物音を立てた。イライラをぶつけられるよう、桃花の部屋にはビニール製のサンドバッグが置いてある。先月桃花が欲しいとねだり、通販サイトの画面を見せた。その時は湧きあがるイライラを持て余して困っているのだと泣いていた。物を壊すくらいなら、殴っていい物を部屋に置いておきたい。それは建設的な意見だった。
小学校の高学年になってから急激に反抗的になった。反抗期の娘を抑えつけるため、そして自分の不安や苛立ちをぶつけるため、きつい言葉で叱責した。それはしばしば言い争いに発展した。言うことを聞かない娘に暴力を振るったこともある。母子関係は完全に破綻していた。満たされない愛情欲求を正人と波子に補って貰い、桃花は何とか自分を保っていたのだと思う。
千紗自身が行動を改めたこと、そして何より猛という心を許せる友人が出来たことで、一時は桃花も落ち着いていた。しかし、美葉が当別に帰ってきて正人の恋人になり、波子が孫の世話をする時間が増え、つかの間の平穏が崩れた。
中学二年で迎えた初潮が事態を更に悪くした。元々重度のアレルギー体質に苦しんでいたのに、ホルモンバランスまで桃花を蝕んだのだ。生理前になると情緒不安定になり、睡眠障害や過食などの症状が現われる。内科に掛かり、PMSと診断された。症状は生理の十日前から現われて、生理が始まると収まる。二十八日周期内の十日間は、コントロールできない感情の荒波に翻弄されるのだ。
激情はホルモンバランスによるものだけではない。中学二年生になってから学校には殆ど通うことが出来ていない。その不安と焦りに溺れそうになっているのだ。
新築の美しい校舎によって、桃花はシックハウス症候群を発症した。公共の建物だから、勿論建築基準法を遵守しているだろう。だが桃花の身体には僅かな化学物質も毒となる。それでも、早退を繰り返しながら通学していた。
その努力を初潮が台無しにしたのだ。PMSで不眠がちになるとアトピー性皮膚炎が悪化する。その顔を「気持ち悪い」と罵られ、桃花は友達を平手打ちにしてしまった。夫の悠人と共に先方に謝りに行った際、「友達関係を続けたくない」とはっきり言われた。親からは「甘やかして育てたからそんな我が儘な子に育ったのではないか」と叱責された。千紗は頭に血が昇り「先にアトピーの掻き傷を気持ちが悪いと言って傷つけたのはそっちだろう。お前こそどういう教育をしているんだ」と言いかえしてしまったのである。
そんな修羅場の一件から、桃花は不登校に陥った。悠人は私学への編入や、通信制の学校に籍を置くことを提案したが、桃花はどれも受け入れようとしなかった。
十四歳にして、人生を諦めてしまった。そんな娘にどう接して良いのか、分からない。
「うう……」
ベビーベッドからむずがる声が聞こえる。千紗はハッと息をつき、ベッドに駆け寄ると、
「待って、待ってね」
声を掛けて乳房を清浄綿で拭く。天井の床がドンと大きく音を立てた。玲司の泣き声は激しさを増す。再び天井が音を立てる。桃花は玲司の泣き声が不快だと言って、イライラしている時は床を踏みならすのだ。
「いいよ、ほら」
千紗が玲司の唇に乳首を押し当てると、玲司は泣くのをやめ、一心不乱に母乳を飲み始めた。
だん、だん、と床を踏みならす音が止まない。今日はいつにも増していらだっているようだ。鳴り止まない足音に身を固くしながら、ふくよかな玲司の頬に視線を移す。桃花への過剰な愛情故に苛立ち、諍いを繰り返してしまう。その想いをもう一人子供を産みそちらに向けることで、桃花は自由になるのではないか。悠人の言葉に納得をして、子を産んだ。だが桃花の状況は悪くなるばかりだ。玲司を心穏やかに育てることもままならず、どうにもならないもどかしさだけが積もって行く。以前のように桃花の行動に口を出す気力も今は無い。
床を踏みならす音が突然やんだ。
静かになった天井を、恐る恐る見上げる。玲司が乳を吸う微かな音がやけに大きく聞こえる。
胸にもやりとした予感が走る。千紗は玲司を乳房から離し、ベビーベッドに横たえると身を翻した。胸元のボタンをはめる余裕がなく、右手でギュッとブラウスの前立てを押さえる。
突然母乳から引き離された玲司は、火を付けられたように泣き出した。しかしもう、床を踏みならす音はしなかった。
階段を上がって、突き当たりの桃花の部屋をノックした。だが返事がない。
「桃花、開けるよ」
うわずった声を掛けて、ドアを開けた。すぐにベッドに腰掛ける桃花の姿を見付けた。桃花は左腕を目の前に翳し、恍惚の表情で見つめている。
「桃花……」
千紗の声が掠れる。桃花の手首から血液が流れている。カッターナイフを握った右手が、役目を終えてだらりと垂れていた。流血する傷の下に、その上下に、無数の傷跡が刻まれている。
「玲司、うるさい。死んじゃえばいいのに」
美しい宝石を眺めるように、鮮血を流し続ける傷口を見つめながら、桃花が言った。
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