何故なら私は雌だから
「ねぇ、お腹空いた! 一緒にお昼ご飯食べようよ!」
「うわあ!」
桃花の声に正人が悲鳴を上げる。美葉からは、刃物を使っている時に正人に声を掛けてはいけないと言われていた。一瞬頭を過ぎったけれど、無視した。
ノミがカランと音を立てて床に転がり、継いで赤い雫が床にポトリと落ちた。
はっと桃花は息を飲む。正人の左の薬指から鮮血が流れていた。正人は首に掛けたタオルを外し、傷口を押さえた。
「大丈夫ですよ。こんなこと、よくあるんだから」
そう言って笑い、傷を抑えているタオルの端で桃花の頬を拭った。その時初めて、桃花は自分が泣いていることに気付いた。正人は大丈夫だともう一度いい、美葉のデスクの後ろにあるチェストに向かった。一番上の正方形の引き出しを開けると、絆創膏や消毒液などちょっとした怪我を治療するものが入っている。桃花は正人が手を伸ばすよりも先に消毒液と絆創膏を手に取った。
「私がやってあげる」
ソファーの左側に座り、視線で正人に座るように促す。
「自分で出来ますよ」
正人は苦笑しながら、桃花の横に座わった。
桃花は唇を尖らせて正人の左手を取ると、血で汚れたタオルを取り除いた。薬指の腹に縦に傷が走り、まだ血が滲んでいる。細くて長い指だ。この指で、美葉の身体に触れている。そう思うと、腹の底でマグマの熱がぐわりと揺れた。
正人の指を咥えた。
何故と理由は言えない。今誰かに現場を見られ、「何故そんなことをしているのか」と問われたら、「自分が雌だから」と答えるだろう。
誰よりも強い絆で結ばれたいと願う。正人を独占したい。自分だけのものにしたい。美葉なんて、死んでしまえばいい。
本気でそう思った。
その時、入り口のドアチャイムが鳴った。続いて鳴る足音を聞いて、正人は指を引き抜こうとした。足音は美葉なのだろう。正人は一音で美葉のものだと気付いた。それが尚いらだたせる。桃花は正人の手をグッと強く掴んだ。
足音は近付いてくる。
「ただいま-」
暢気な声でそう言って、ドアを開けた。足音が止まる。正人の呼吸も止まる。桃花は身じろぎもせず膠着した空気を味わった。
美葉の足音がゆっくりと近付いてくる。
「どうしたの? ……怪我……?」
問いかけてきた美葉に挑戦的な上目遣いの視線を向けた。正人の右手が桃花の肩にそっと触れ、左手が唇から離れる。
「ちょっとだけ、切っちゃいました」
正人がぎこちなくそう言って、消毒液に手を伸ばす。それを制するように美葉が先に手に取り、鞄の中からポケットティッシュを取りだした。
「消毒しないと。怪我が拗れたら大変だからね。仕事にも影響しちゃうしね」
美葉の声音は冷静だった。まるで自分が汚いものだと言われた気がした。また腹の底に炎の塊が蠢く。桃花は立ち上がり、ソファーのクッションを正人に向かって放り投げ、身を翻した。
勝手口から外に出る。自分の名を呼ぶ正人の声が追いかけてきたが、正人自身が追いかけてくることは無いと、分かっていた。
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