おこぼれの愛情では飢えてしまう

 正人の背中を桃花は見つめていた。


 隣家に美葉の車を見付けて、急いで樹々にやって来た。あの女がいない間は正人を独り占めできる。そう思ったのに、正人は仕事に熱中して全くこちらを見てくれない。


 桃花はピンク色のレザーに座り、スマホに視線を落とす。スマホの背部には電磁波を除去するステッカーが貼ってある。


 スマホが震え、通知音が鳴った。


『かれぴとイチャイチャちゅうですか』


 ダイレクトメールにメッセージが届く。「ぽてこ」というアカウント名の、同じ中二の女子だ。桃花の呟きに同調するコメントを返してくれるようになり、仲良くなった。お互いに価値観が合い、ぽてこの方からいじめにあって不登校になっていると悩みを打ち明けてきた。それ以来、ダイレクトメールでやり取りをしている。


『かれぴは仕事中なり。ひまで死ぬ』


 正人の事は、年上の彼氏だと偽っている。重度のアレルギーや生理のイライラで苦しむ自分に優しくしてくれる彼氏として、言われてもいない言葉をのろけ「リア充」を装う。しょうもないマウントだ。SNSの中くらい、人より上に立っていたい。


『なんかいいネタある?』

『ないからひま』


 「ネタ」とは、炎上させることが出来そうな書き込みのことだ。桃花は複数のアカウントを持っており、気に入らない呟きに批判的な意見を続けざまに書き込む。擁護するような言葉を呟いてからそれを否定するコメントを書いて、あたかも「様々な意見があるが概ね批判的」という状況を作る。こういうネタが好きなインフルエンサーとは普段から交流を持っている。彼らはすぐに食いついて、煽ってくれる。すると、それに乗っかって批判するコメントが次々と集まってくるのだ。いわゆる「炎上」という状況を作り出す。ネット上の火遊びが、暇を持て余している桃花にとって唯一の憂さ晴らしとなっていた。


 今年の春、中学の校舎が建て替えられた。途端にシックハウス症候群で頭痛や吐き気に襲われるようになった。アレルギー反応で体調を崩し、保健室に避難することはこれまで何度もあった。しかし、新校舎の保健室は安全な場所ではない。


 同時期に、同級生よりもずっと遅れてやって来た生理が、精神状態をかき混ぜるようになった。生理前になるとイライラして、まるで獣になったみたいに攻撃的になる。それで同級生とゴタゴタを起こしてしまい、教室に居場所をなくした。


 新校舎だけではない。この三年で桃花を取り巻く環境は一気に変わり、今まで頼っていた愛情は別の場所に向けられ、自分にはそのおこぼれしか与えられなくなった。


 去年弟が生まれた。今まで自分に向けられていた母親の愛情は、弟に注がれた。自分に与えられるのは、そのおこぼれ。


 いつも自分を助けてくれた波子には孫が生まれて、その子の世話をするのに時間を取られるようになった。自分に与えられるのは、そのおこぼれ。


 正人の所へ美葉が戻ってきた。正人の愛情は美葉だけに向けられるようになった。自分に与えられるのは、そのおこぼれ。


 残飯みたいな愛情しか貰えなくて、いつも飢えている。だから美葉がいない時に正人の元へやって来た。正人にこっちを向いて欲しい。全ての愛情を自分に注いで欲しい。


 それなのに、仕事ばっかり。


 苛立ちが火花のように身体を駆け巡る。衝動的に立ち上がると、正人に歩み寄った。正人は前屈みになって、板に木彫の飾りを施していた。


「ねぇ、お腹空いた! 一緒にお昼ご飯食べようよ!」

「うわあ!」


 桃花の声に正人が悲鳴を上げる。美葉からは、刃物を使っている時に正人に声を掛けてはいけないと言われていた。一瞬頭に過ぎったけれど、無視した。


 ノミがカランと音を立てて床に転がり、継いで赤い雫が床にポトリと落ちた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る