茶髪の師範

 駅前にある総合体育館は、当別町自慢の施設だ。一階にはバスケットゴールを二台設置できるアリーナがあり、その隣には弓道場がある。トレーニングルームはそれほど広くはないものの、マシンは充実している。二階はアリーナを見下ろすランニングコースと格技場がある。ランニングコースを利用した事はあるが、格技場に足を踏み入れるのは初めてだった。


 暖房が入っていないらしく、格技場は冷えていた。板張りの床が窓からの日差しを反射している。その光の中に猛が、白い空手着を着て立っていた。小学五年の猛はこの一年で随分背が伸びた。家業である農業の手伝いもよくするので、子供の割に引き締まった身体をしている。母譲りの切れ長の瞳に細い眉、つんと尖った鼻。まだあどけなさを残す眉目秀麗な顔立ちがキリリと引き締まり一点を見つめている。


「ピンアン五段」


 張り詰めた空気を切り裂くようにボーイソプラノが響く。


 直立不動の姿勢から両手を僅かに開いたかと思うと、左右に鋭い打撃を繰り出した。静かに直立の姿勢に戻り、空気を切り裂くように右側を突く。また直立し、左の空も突いた。前方に踏み出して両腕を交差させ、頭上に掲げる。素早く後方左に打撃を加えると前に身体を返して頭上に右手を翳す。そのまま低く跳躍して両足を交差して着地し、流れるように前方へ打撃を加えながら体重を後ろ足に移動した。左手を頭上に翳し、右手を膝の上に払う。


 一瞬の静寂が訪れる。


「セイヤ!」

 涼やかな声が空気を裂く。


 猛は静かに元の姿勢に戻り、一礼をした。


「まだ余分な力が入ってるね。演舞の前に肩の力を抜きなさい」


 明るい茶色の髪を後ろに束ねた女性が壁際から歩いてきて猛の前に立った。重心の低いどっしりとした腰には黒い帯が巻かれている。猛は「はい」と素直に返事をして顔を上げた。その視界に美葉の姿を捉えたようで、唇を「あ」と小さく動かした。猛の視線を追って、女性が振り返る。身のこなしや髪の色から若い女性を想像していたが、意外にも中年と呼んでいい年齢だった。陽の気を纏った笑顔を美葉に向け、会釈する。


「猛のお迎えですか?」

「あ、そうなんですけど。急ぎませんので続けてください」


 美葉は慌てて両手を横に振る。もうすぐ昇級試験があり、それに合格すれば猛は黒帯に昇格できるらしい。試験に向けて特別に練習後時間を取ってもらっているのだとアキが言っていた。女性はチラリと視線を上に走らせた。駅の構内にあるような大きな時計が壁に掛けられてあった。


「いえ、時間はもう過ぎていますから。後は猛が当日どれだけ実力を出せるかどうか」


 女性の声音には厳しさがあり、その裏には猛への愛情と信頼が窺える。猛は一瞬不安そうな顔をしたが、きゅっと唇を引き締めた。


「はい。お時間を取って下さってありがとうございました」


 静かにそう言って頭を下げる。小学生とは思えない大人びた言動に美葉はいつも舌を巻く。黒帯の女性が美葉に歩み寄ってきた。


「すいません。一応猛との関係を確認させて頂いていいですか。お母さんではない事は確かなので」

 苦笑いを浮かべているが、美葉は何一つ嫌な気持ちにはならなかった。女性が発する清々しい空気がそうさせるのかも知れない。


「猛の隣人です。アキ……猛のお母さんが忙しそうだったので代わりに迎えに来ました」

 黒帯の女性は、美葉の言葉を確認するような視線を猛に向けた。それを受け、猛は大きく頷いた。


「そうですか。すいませんね。世の中物騒だから」

 笑いながら軽く頭を下げる。美葉は首を横に振った。

「分かります。気にしてませんから、全然。猛の勇姿も見られたし。……格好いいですね、空手の型って」

「でしょ? でしょ?」


 女性は大きく一歩美葉に歩み寄った。その勢いに思わず後退る。女性は大きめの顔に満面の笑みを浮かべている。


「良かったら、やりません? 女性が多いんですよ、うちの流派。組み手よりも型を重視しているから、女性でも怪我の心配ないし」

「いや、でも、もうこの年だし……」

「何言ってるの!」


 女性の手の平が美葉の背中に振ってくる。軽く叩いたようだが、結構な衝撃である。流石黒帯。


「まだ二十代でしょ? どう見ても。私なんて、四十歳から初めたんだよ!」

「ええ!?」


 その言葉に美葉は驚き、再確認するように女性を見つめる。多分五十代には至っていないだろう。と言うことは、四十代から始めて十年経たずに黒帯まで上りつめ、人を教えるまでになったと言う事か?


「息子の送り迎えしている内にいつの間にか自分が夢中になっちゃってね。まさか空手の先生になるなんて思ってもみなかった」

「失礼ですが、師範をされているのですか?」

 女性は頷き、ああ、と声を漏らす。


「当別支部を担当している、橋本っていいます」


 人懐っこい笑顔に美葉も思わず微笑みを返す。


「谷口美葉と言います。……因みに、黒帯取るまで何年くらいかかりました?」

「五年かな。あっという間だったよ。とにかく楽しくて、夢中になってやってたからね。良かったら今度体験に来てよ。その服装で充分だから」

「……じゃあ、また今度」


 ジーンズに裾の長いオーバーサイズのトレーナーを自身で確認し、美葉は曖昧に頷いた。

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