美葉とアキ
玄関を開けると、キャッキャとはしゃぐ声が耳に飛び込んできた。
柏の木の下で、自分の背丈ほどある雪だるまに飛びついて大地が笑っている。祖母の波子と父の錬が、ニコニコと笑ってその様子を眺めていた。
車に乗り込もうとしたとき、隣に駐車しているアルトに向かってアキが走ってきた。カーキ色のつなぎは泥が付き、手も黒く汚れたままだ。車のドアを解錠しようとしたが開かず、ポケットをまさぐる。
「どうしたの?」
声を掛けると、おかっぱの髪を揺らしてアキが顔を挙げ、驚いたように目を見開いた。隣に停車した車の前に立つ自分に気付かなかったようだ。アキの身体は小さくて細い。その肩を揺らして息をしながら、眉をしかめた。特別整えなくても細く綺麗な形の眉は、切れ長の瞳と相まって気が強い女性に見える。ヤンキー顔と言う奴だ。
「猛の空手教室終わる時間、すっかり忘れてて。迎えにいってあげなくちゃ。……でも、鍵を鞄の中に置いて来ちゃったみたいで……」
「ああ、だったら私が行ってあげる。今日休みだけど、予定が無いの。すごーく暇だから、気にしないで」
気を遣いすぎるアキに先手を打ってそう言うと、アキは困ったように首を傾げた。
「……いいの?」
「勿論! あ、ついでに空手教室覗いていこうかな。ちょっと興味あるんだよね」
にっこり笑って片手をあげると、運転席に乗り込んだ。アキはすいませんと言うように頭を下げる。
アキは幼なじみの健太の彼女だ。仲間同士だから仲良くしたいけど、いつまで経っても壁を取り除けない。自分では、佳音と変わらず接しているつもりなのだが。
「ま、仕方ないか」
ほんの一時期だけ、アキは正人の妻だった。もう十年も昔の、美葉と出会う前の話。気にする必要は無いけれど、無かったことにもできない。
水に流せないものが、生きている内に出来てしまうのは、仕方の無いことかも知れない。でも、正人と自分の間には、出来るだけ作りたくない。
だから、何とかしなければならない。それは、分かっている。
***
美葉の車を見送りながら、アキは溜息をつく。
美しくて、生き生きとしていて、自分の人生を自分の足でしっかりと歩いている人。アキにとって美葉は眩しい存在だった。彼女のようになりたいと憧れるが、身の程知らずな願いだと分かっている。
正人と共に過ごした数ヶ月間に、自分は彼の事を何一つ知ることは出来なかった。心に踏込もうとしなかったからだ。自分の事で精一杯で、相手を思いやることが出来なかった。
それは多分、今も変わらない。
生活に困窮すれば、平気で息子を元夫に押しつけて死に逃げ込もうとする。そんな卑怯な人間なのだ。健太は深く熱の籠もった愛情で自分も猛も包んでくれる。でも、どこか落ち着かない気持ちが付きまとう。
自分にはそんな愛情は似合わない。
どうしても、そう思ってしまう。
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