水に流せないもの
「そんなの、そのまんま本人に伝えるしか無いじゃない」
呆れた表情で佳音が言う。色白でふっくらとした頬に、緩く天然パーマの掛かった髪が愛らしい。佳音とは物心ついたときからの付き合いだが、母という立場は人を強くするのだとつくづく思う。気弱な佳音をいつも背に庇ってきたのだが、いつの間にか立場が逆転した。立派な看護師であり、三歳になる男の子の母となった佳音には、どんなことでも相談できる。今日美葉は手紙の件を、実家に遊びに来ていた佳音に打ち明けたのだった。
「そうだよね……」
予想通りの返答に、美葉は小さく溜息をつく。佳音は小首を傾げて困ったような顔をして、美葉が手土産に持ってきた人参ジュースに口を付ける。二百五十ミリリットル缶に入った有機栽培の人参ジュースは濃厚で甘い。小さなテーブルにはティーカップが二組片隅に寄せられていた。今し方まで、アキがきていたらしい。約束も無しに訪ねたのは悪かったが、開口一番「美葉まで相談事?」と言われてしまった。アキと比べて自分が雑に扱われている様に感じて、ムッとした。
「結局まだ引き摺ってるんでしょ? お正月のこと」
図星を指されて、うっと目を閉じると、佳音は腕を組みふんと唸った。
「そこもちゃんと話し合えば。土足で入り込んじゃったのは事実でしょ? やっちゃったと思ってるんでしょ? 正人さんも自分がやらかしちゃったって自覚があるよ、きっと。お互いに無かったことにしようとしてるけど、水に流せないでいるんでしょ?」
「流れていかないんだよね……」
呟くと、佳音が一つ溜息をつく。
「正人さんの繊細さとか、不器用さとか、まるっと全部受け入れて一緒にいるって、覚悟がいるよ。でも、その覚悟が出来てるから、一緒にいるんでしょ?」
思わず胸を押さえる。確かに、誰よりも彼を理解していて、どんなことが起こっても受け止めると覚悟しているつもりではいる。
「……怒った正人さんのことは、確かに怖いと思ったけど。それはいいの。正人さんの持つ一面だから受け入れられる。……正人さんが一番触れて欲しくないって思ってる事に、勝手な正義感を翳した自分が許せないんだよ」
正人が寂しく育ったのも、母が自殺まで追い詰められたのも、アメリカに単身赴任をして見て見ぬ振りをした父親のせいだ。それは、紛れもない事実だ。
正人は、父親を冷淡な人間だと思っている。だけど美葉はそうでは無いと推測していた。
恐らく、正人と父親はよく似ているのだ。手に負えないことから逃げてしまうところが特に。だがそこだけでは無く、人柄もよく似ているのでは無いだろうか。優しく、正義感が強く、繊細で臆病。正人の性格の一部は必ず父親から受け継いでいる。そんな人が悪人であるはずが無いと、思うのだ。
「そこまで分かっているんなら、後は覚悟を決めるだけだよ。これは凄く大事な事。お爺さんが『自分の胸に仕舞っておく』っていう選択肢を持ち出すのが間違いだよ。会うか会わないか決めるのは正人さん。それ以外ありえない」
佳音はきっぱりとそう言って、ふうっと大きく息をついた。ベージュ色のワンピースの腹部はこんもりと盛り上がっている。美葉は無意識に手を伸ばして、張りのある感触を確かめながらゆっくりと撫でた。
「大変そうだね。何ヶ月だっけ」
「六ヶ月に入ったとこ」
腹部は既に臨月のように張り出している。この中に二つの命が入っているのだから、無理も無い。
「後一月ちょいで、晴れて専業主婦だからね、がんばる」
「このお腹であと一ヶ月かぁ。大変だね」
病棟の看護師となれば、一日中動き回わらなければならないだろう。その上三歳児の世話と保育園の送り迎えもしなければならない。夫の錬はイクメンだが、パン職人なので早番の日は四時出勤だし遅番の日は帰宅が深夜になる。
「産休と同時に退職するからね。最後まで頑張らなきゃ。お世話になったからね」
そう言ってチラリと舌を見せる。余り育児に理解ある職場とは言えなかったようだが、師長さんが味方になってくれたので続けることが出来たと佳音は常々話している。
「いよいよ当別に帰ってくるんだもんね!」
そう思うと、何もかも忘れてしまうくらい嬉しい。佳音と錬は今まで札幌の手稲区に住んでいた。当別から近い場所ではあるが、お互い仕事もあるからそうそう往き来はできなかった。錬は今開発中の町に薪釜のパン屋を開業すると決意したのだ。まだ設計図を引いている段階で、着工は来春になりそうだ。佳音は看護師を続けるつもりだが、生まれた子供が一歳になったら町内の診療所で働きたいと考えている。
「そう言えば、大地は?」
「お父さんとばあばと雪だるま作ってる。本当はカマクラ作って欲しいんだけど、まだそんなに雪積もってないからね」
目を細めて佳音が微笑む。母親らしいオーラを放つ親友を、美葉は眩しく見つめる。自分も早く母になりたいと思うのだが、遠い道のりに感じてしまう。
柱時計がポーンポーンと時を知らせる。時計の針は十一時半をさしていた。
「出かける時間じゃない? そろそろ帰るわ」
美葉は腰を上げた。佳音はこれから親族一同とランチを食べに行くらしい。
「うん。産休に入ったらゆっくり会おう。その時までには、ちゃんと解決しておいてよね」
「はい!」
美葉は片手をあげ、その手で立ち上がろうとする佳音を制した。
見送りを断って廊下に出ると、階段を上がろうとしている紫苑と鉢合わせになる。佳音の六つ下の弟だ。
「今日は」
相変わらず乏しい表情で頭を下げる。姉と色白な所はよく似ている。背が伸びて、大人っぽくなったなと思う。
「久しぶり、紫苑。何年生になったの?」
「四年です」
おお、と美葉は内心驚いた。いつまでも小さな弟だと思っていたが、すっかり精悍な男に育った。
「後二年か。何科のお医者さんになるとか、もう決めたの?」
「それは、国家試験に受かってからです。卒業してから二年間色んな科を研修で回って、それから決めるんです」
「え、そうなの?医学部で専門的なことを学ぶわけじゃないんだ」
「はい。今はまず、どの科でも診ることが出来るように。学生の間は満遍なくいろんな知識を吸収します。……僕は、地域医療に進みたいとは思っていますけど」
ボソボソとそう言って、照れくさいのかそそくさと階段を上っていった。ずっと家業を手伝っていたので、てっきり農家を継ぐつもりでいると思っていた。突然医者になると言い出した時はみんなが驚いたものだ。
「みんな大人になるんだね」
階段を見上げて呟き、おばさんみたいだと自笑した。
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