【慶一郎END】

【慶一郎END】

紫「ねえ、一緒に行こうって、言ってはくれないの?」

慶一郎「…」

紫「初めて見たのも、あなたとだったから。最後も」

慶一郎「…そう、だったな。」


紫N「彼にしては珍しく、一瞬明らかに動揺した。そっとカウンターテーブルに置かれたチケットが物悲しく見える。確かに最後の展示会最終日。見に行きたくないと言えば嘘になる。でも最後を見てしまったら本当に終わってしまうような気がして。」


紫N「何事もなかったかのように料理を再開する彼をそっと見つめることしかできなかった。」


_________


紫N「待ち合わせは、午後5時。駅前の本屋。朝からぐずついていた空は大粒の雨を吐き出していた。彼に買ってもらった白いレースがあしらわれた雨傘は私の足元で雫を垂らしている。」


透「紫さん。」


紫N「私の前で立ち止まる、黒い大きな傘。でも、」


紫「は、やせくん?」

透「はい。夕方に珍しいですね。」

紫「…ええ。」


紫N「彼は、来なかった。」


透「あ、慶一郎さんと待ち合わせでした?」

紫「その筈だったんだけど、連絡つかなくて。こんなの初めてかもしれない。」

透「あ、それ巌水展の、」

紫「そう。最終日だから。今日。」

透「展示会、6時までですよ。」

紫「…そうね。」

透「…行きましょう。きっと見たほうがいい。」


紫N「強引に手を引かれタクシーで展示会へ向かった。早瀬くんの傘には持ち手にお買い上げのシールが付いている。」


紫「傘、持ってなかったの?」

透「…はい。会社に忘れちゃって。」

紫「今日は、ビニール傘じゃなかったのね。」

透「…はい。」


紫N「窓を叩く篠突く雨に、胸がざわめいた。」


_________


慶一郎「ただいま。」

紫「おかえりなさい」

慶一郎「ああ。」

紫「…」

慶一郎「今日はすまなかった。会議が長引いて連絡もできなくて。」

紫「いいのよ。」

慶一郎「見に、行けたか?」

紫「…ええ。偶然、早瀬くんと駅で会って。」

慶一郎「…そうか。」


慶一郎「どうだった?展示会は。」

紫「素敵だった。」

慶一郎「そうか。」

紫「でも、最後の部屋。いつもは花が足されたり場所が変えられたりする事はないんだけど、最後のフロアだけ、初日にはなかったものが置いてあったわ。」

慶一郎「そうなのか?」

紫「小さな可愛い花でね、それだけは生花じゃなくてプリザードフラワーだった。」

慶一郎「何の花だった?」

紫「ブバルディア、っていうの。」


慶一郎N「紫は。ずっと俺が守ってやらなければ。あの雨の日の様に。ずっと、傘をさしてあげなければ。」


慶一郎N「そう思ってきたんだ。ずっと俺がそうしたいと思ってきたんだ」


紫「ねえ、慶一郎さん。」

慶一郎「鞄。」

紫「え?」

慶一郎「鞄、お願いするよ。」

紫「え、ええ。」

慶一郎「今日は外に食事に行こう。」

紫「ええ、」

慶一郎「あと、」


慶一郎N「これ以上君を傷つけるような事が起きるなら、俺は一生俺を許せないだろう。」


慶一郎「この間潮見さんと偶然会う機会があって久しぶりに話したよ。」

紫「…由実と?」

慶一郎「結婚式以来。本当に久しぶりに会話した気がする。」

紫「…」

慶一郎「“恍惚”」

紫「な、」

慶一郎「彼女にも薦めたのか?」

紫「…読んでみてほしくて。」

慶一郎「そうか。」


慶一郎「来週末、北海道に行こうか。」


慶一郎N「俺は、後悔は、したくないんだ。」


紫「え?」

慶一郎「3人で。そう誘われたんだ。潮見さんに。」

紫「由実に、」

慶一郎「ああ、恍惚を読んでいるんなら透くんも誘って4人で行こう。」

紫「…慶一郎さん、何を考えてるの?」

慶一郎「大切なお友達だろう。きっとそっちのほうが良い。」

紫「…」

慶一郎「俺が連絡しておく。暖かいコート出しておくといい。また寒いだろうから。」


慶一郎N「お前と一緒に湖に落ちるのは、きっと俺ではないだろうから。だから」


_________


透「もしもし、早瀬です。」

慶一郎「こんばんは。今、少し時間貰えるか?」

透「はい。大丈夫です。」

慶一郎「展示会。無理言ってすまなかった。」

透「どうして、行かなかったんですか?」

慶一郎「…君と行ったほうが紫は楽しめるだろうから。それに発作も起きずに最後まで見られたのも君のおかげだろう。ありがとう。」

透「いえ、僕は何も。」

慶一郎「…相談が、あるんだ。」


慶一郎「来週末、予定はあるか?」

透「来週末、いえ。特に何もありません。」

慶一郎「よければで、構わないんだが、旅行に行かないか?」

透「旅行、ですか?」

慶一郎「君も読んだだろう。“恍惚”に出てくるあの、青い湖。」

透「…何しに行くんですか。」

慶一郎「…旅行だよ。ただの、旅行さ。」


透「…違い、ますよね。」

慶一郎「…。実は、彼女の友人も一緒に来るんだ。」

透「由実、さんですか?」

慶一郎「ああ。紫から聞いていたかな。」

透「お名前だけ聞いたことがあったので。その人かなって。」

慶一郎「そうだ。」


透「どうしてそこに、僕を誘うんですか?」

慶一郎「俺は、紫を守ることが彼女のためだと思って今まで一緒にいた。」

透「…はい」

慶一郎「でも、君には敵わない。俺は彼女に寄り添うことはできても彼女に共感することはできない。」

透「慶一郎さん、」

慶一郎「何かあったら、俺にもし何かあったら。彼女を守ってやってはくれないか。」

透「…僕は、」

慶一郎「一生の頼みだと思って。考えておいてくれ。」

透「慶一郎さ、」


_________


由実N「ネットで注文した刃渡14センチのサバイバルナイフ。銀色のそれは私の手の中でジリジリと光る。」


由実N「ごくり、と喉が鳴る。緑のボタンをタップするまで震える指を何度も摩った。」


紫「もしもし?由実?」

由実「もしもし。」

紫「どうしたの?朝早くに。」

由実「今日休みでさー。さっき宅配便来て起こされちゃった。」

紫「それは災難だったね。宅配ボックスとかないの?」

由実「うちにはないよ。」

紫「そうだっけ?便利みたいだよ?インターホン鳴らされなくて済むの。」

由実「そうなんだ。」

紫「うん。」

由実「…」

紫「…あれ?何か用だったんだよね?」

由実「、巌水展の冊子。」

紫「あ!そうそう。預かっててくれたんでしょ?」

由実「今度の旅行の時、持っていくから。」

紫「うん。ありがとう。」

由実「…」

紫「…?どうしたの?由実」


由実N「震える声を、悟られるな。」


紫「由実?」

由実「旅行の日。“恍惚”持ってきてね。」

紫「由実、」

由実「言ったじゃん、前。」

紫「…」

由実「私、本気だよ。」


由実「大丈夫。私に任せて」

紫「由実、」

由実「きっと、私なら紫の味方になれるよ。」

紫「ゆ、」

由実「ね。紫」


由実N「慌ただしく切ったスピーカーからは何度も着信音が鳴った。うるさい鼓動を抑えるために長く細い息を吐く。あの子の為に、あの子の為に。…違う。私の為だ。」


由実「好きなんだよ、紫。」


_________


慶一郎「潮見さん。」

紫「由実!こっち!」

由実「ごめんね、飛行機乗り損ねちゃって。私だけ新幹線とか。」

紫「ううん。」

慶一郎「建物でたら結構気温低いから、上着着ていたほうがいい。」

紫「うん。ありがとう。」

由実「…」


紫「由実、上着。」

由実「ありがと。…ねえあの本。持ってきてくれた?」

紫「…ええ。また読むの?」

由実「そんなわけないじゃない。」


由実「ね、紫。」


慶一郎N「彼女の瞳は燦爛と、静かに燃えていた。」


………………


由実「…。恍惚。何考えながら読んだと思う?」

紫「なに?」

由実「弱虫だって、情けないって思いながら読んだんだよ。」

紫「弱虫?」

由実「今世じゃ結ばれないから?諦めてんじゃないよ。今世で結ばれないと意味がないんだよ。」

紫「…」

由実「私は諦めない。」

紫「…そう。」

由実「花咲に会わないのは、殺してしまいそうだからだよ。」


紫N「私の作った砂の城は、あの日踏み躙られた。」


由実「好きだよ。」

紫「…言わないで。」

由実「好き。」

紫「やめて」

由実「大好き。」

紫「由実、」

由実「花咲が出張から帰ったら、2人で殺して北海道の青い海に沈めようか。」

紫「っ、」

由実「そう思ってるよ。ずっと。」

紫「やめて、」

由実「今いいなって思ったでしょ。」


紫N「彼女の放った言葉は、決して冗談なんかじゃない。ドクンと大きく跳ねた心臓は期待だったのか、恐怖だったのかわからない程彼女の焔に当てられた。」


………………


透「こんにちは。」

由実「ちょっと花咲。私3人でって言わなかった?」

慶一郎「俺が誘ったんだ。彼も好きだから、“恍惚”。」

由実「…どうも。潮見 由実です。」

透「はじめまして。早瀬 透です。」


紫「あ、荷物もつわ。」

慶一郎「ありがとう。スーツケースは持つから、これだけ。」

由実「湖近くの宿なんてよく見つけたわね。ネットで探したけど見つからなかったわよ。」

慶一郎「地方開発の一環でうちが担当しているんだ。まだ営業はしていないが、施設自体はもう使えるそうだから。」

紫「え?」

透「慶一郎さんの会社の事業なんですか?」

慶一郎「ああ。キャンプが流行ると営業が嗅ぎつけてな。」

由実「それで、わざわざこんなとこに。」

慶一郎「…。」

透「…これで旅行、来やすくなりますね。紫さん。」

紫「…ええ。」

由実「金持ちの思考意味わかんない。」


慶一郎「グランピング施設だからある程度は整っているはずだ。昨日スタッフが泊まれるよう準備してくれている。」

由実「…」

慶一郎「…今日は、俺たちしかいない。」

由実「そう。…だって、紫よかったね。」

紫「…ええ。」

透「…僕、準備してきますね。」


_________


紫「由実。」

由実「…昼間は青かったのに、夜はほとんど黒ね。」

紫「ねえ、由実。」

由実「ねえ、紫。摘まれた花は、幸せだと思う?」

紫「…」

由実「誰にも摘まれずに誰にも気づかれずに独りぼっちで枯れてくのとどっちが幸せだと思う?」

紫「由実、」

由実「私は、誰かのものに、なりたいよ。」


___


透「慶一郎さん。薪、ある程度割っておきますか?」

慶一郎「そうだな。でも、雨が降るかもしれないから。」

透「?天気予報は晴れですよ?」

慶一郎「…そうだな。」


慶一郎「早瀬くん。」

透「はい。」

慶一郎「ビニール傘は今後やめて、あの黒くて大きな傘を使うといい。」

透「…」

慶一郎「あと、コーヒーも紅茶もできればスティックシュガーではなくて、角砂糖を用意するといい。華奢な小瓶に入れれば彼女は喜ぶから。」

透「慶一郎さん、」

慶一郎「食欲がない時は、中華粥がよかった。果物は基本的に好きだが、バナナとキウイだけは嫌いだから買ってこないように。」

透「慶一郎さんっ、」

慶一郎「早瀬くん。」


慶一郎「紫を、頼んだよ。」


______


慶一郎N「黒くくすんでしまった湖は悲しそうに見えた。」


紫「…慶一郎さん。」

慶一郎「ん?」

紫「ライトアップ、わざわざここ選んだの?」

慶一郎「…湖は君にとって特別なんだろう。」

紫「本当にそのためだけに、ここにしたの?」

慶一郎「…ああ。どれだけライトを着けてもさすがに夜は青く見えないな。」

紫「…」

慶一郎「…」


慶一郎「紫。俺は、お前を守ってやりたかった。」

紫「…十分守られてるわ。」

慶一郎「いや。俺はお前を囲っていただけだ。後にも先にも進めないように。」

紫「そんなこと、」


慶一郎N「パキ、という後ろから聞こえる音。彼女をライトから隠すように左に寄る。」


由実N「わざと、紫の前に立ち直す花咲には、何もかもバレていた。」


紫「慶一郎さん、私」

慶一郎「紫。ここには誰も助けに来ない。だから、」


由実N「駆け出した。勢いをつけて花咲の背を刺すつもりで。鍛えられた体に負けないよう、腕を引き差し込んだ。途端振り返られ、腹部を深く射抜いた。」


慶一郎N「咄嗟に振り返ったのは決死の顔を彼女にに見せないためだ。熱湯を注がれたような痛みは腹からあっという間に指先まで広がっていく。」


紫「な、」


由実N「傾く体、黒い湖が私まで捉える。見上げた彼の顔は想像していたより穏やかで」


慶一郎N「紫を傷つけることは許さない。だから、俺は彼女ごと、」


由実N「掴まれた腕、口から溢れる泡。」


慶一郎「覚えているか。あの本のラスト。」

由実「離して。」

慶一郎「“青い水面の下で、今度こそ。”」


慶一郎「“しあわせに、なろう。”」


_________


透N「影が揺らいだ。気付いた時にはもう遅かった。」


紫「いやあああああああああああ」


透「紫さん!」

紫「離して!離して!」

透「だめです!紫さん!」

紫「離して、離してよ…」

透「紫さん。」


透N「湖に足首までつけた彼女を必死に引き止める。想像つかないほどの強い力が、徐々に弱くなり、」


紫「…置いて、行かないでよ」


紫「守ってくれる筈でしょ。ずっと、ここにいてくれる筈でしょ。ねえ、」

透「紫さん。」

紫「私は、」


透「腐っていようが、高嶺の花だよ。」


紫「っ、」

透「そう、言っていました。」


紫「離して。」

透「僕は託されたので。これ、」

紫「離して。」

透「…最期くらい、向き合ってあげてください。」

紫「…あなたに何が」

透「分かりません。だから、せめてあなただけは知ろうとしてください。わからないで済まさないで。」


透「慶一郎さんは、あなたを、」


………………


慶一郎「紫。」

紫「何?」

慶一郎「あいしてるよ。」

紫「…」


慶一郎「あの日言えなかったこと、今なら言えるよ。」


慶一郎「純白に包まれた君を、あの日、俺以外が目を背けていたこと。君は優しい人だからわざとマーメイドドレスを選んだんだろう。足の痕が見えないように。お義母さんを気遣って。うちの両親を気にして。でも俺は、その痕すら美しいと思っていたよ。幸せを噛み締めるたび苦しそうにするから、できるだけ一歩引いて接してきたつもりだ。でも隠せていただろうか。本当は、とびっきり愛してやりたかった。君は一生、俺の高嶺の花だから」


紫「や、めて」


慶一郎「愛の言葉が君を苦しめないなら、どんなに楽だったろう。守ってやりたかった。溶けるほど愛してやりたかった。何より、寄り添って生きたかったよ。」


紫「やめて、よ」


慶一郎「紫陽花に捧ぐ。愛の言葉を、」


紫「や、だ」


慶一郎「どうか、しあわせに」


紫「私は、」


……………………


透「ただいま」

紫「おかえりなさい。」

透「紫さん。」

紫「はい、鞄。」

透「…ありがとう。」


紫「ねえ、今日は和食にしたの。料亭には負けちゃうけど、あなたの好きな海老しんじょうも作ったのよ」


透「…慶一郎さんが好きだったんですか?」


紫「そう。」


紫「明日、雨が降ればいいのに。」

透「そう、ですね。」

紫「そしたら、相合傘してくれる?」


紫「ねえ。また、愛してくれる?」


_________


※読まなくても大丈夫です。


慶一郎「愛してるよ」

紫「私も、」

慶一郎「愛してる」

紫「私も、愛してる。」


紫「いつかの恍惚のために。」


透「僕はこの花と、腐敗を選んだ。」


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紫陽花に捧ぐ 有理 @lily000

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