紫陽花に捧ぐ
有理
紫陽花に捧ぐ
「紫陽花に捧ぐ」
※「摘まれた花の」「紫焔に」「燦爛に」「痕に這う」4作品の内容を含む、お話です。
花咲 紫 (はなさき ゆかり)
早瀬 透 (はやせ とおる)
潮見 由実 (しおみ ゆみ)
花咲 慶一郎(はなさき けいいちろう)
※必ずどの演者様も下読みをしてください。
エンディングを決めてから開始して下さい。
紫N「北海道の青い湖。」
由実「あいつを殺して、2人であの湖に落とそうよ。」
慶一郎「いっそ、お前と2人で落ちてしまえたら。」
透「あなたが落ちてしまわない様に、僕は待っています。」
紫N「渦巻く感情に息ができない。」
たいとるこーる「紫陽花に捧ぐ」
※エンディングの方がお読みください
______________
紫N「私は温厚な母とそうではない父の下で育った。元コンパニオンの母は父に虐げられ、それでも気丈に笑える様な強い女性だった。私が5歳の時、いつものようにベッドで父の相手をさせられていた夜、夜勤だったはずの母が忘れ物をとりに帰ってきた。母はベッドに横たわる私を抱え家を飛び出そうとした。そんな母を父はビール瓶で殴った。真っ赤な血のついた腕の中で私はひたすらに守られていた。」
紫N「ツギハギな記憶、いつしか父は私達の前からいなくなり、代わりに精神科医の男の人がそばにいる様になった。それから母はその男と結婚し私に弟ができた。2番目の父は初めは優しかったものの、少しずつ少しずつおかしくなっていった。」
紫N「私を見る目が日に日に父親から男になっていく。2番目の父は私を抱かない代わりに私の体に何度もタバコの火を押し付けた。綺麗だから惹かれるのだと、ぶつぶつ呟きながら。私が人を誑かしたりしないように、傷モノは誰も欲しがらないから、と自分に言い聞かせるように。そして私が高校3年の時“順応性に欠けるお前は俺のように生きていけなくなる”そう言い残して自殺した。」
紫N「母は言う。あなたは人を狂わせる、普通には生きられないのだと。」
紫N「でも私は、普通に生きてみたかった。それなのに」
______________
由実「紫?聞いてる?」
紫「うん。」
由実「嘘だ。よそ見してたでしょ」
紫「ごめん。考え事してた。」
由実「誰のこと考えてたの?」
紫「…昔のこと。」
由実「ふーん。」
紫「由実。」
由実「はいはい。わかってる。」
由実N「彼女を手に入れようと思ったのは、高校1年の冬、図書室で目があった瞬間。くすり、と笑った彼女に囚われた。ずっと、彼女にとって都合のいい女でいてあげるつもりだった。なのに彼女は自ら嫉妬という火を私につけた。」
------
紫「そんなに嫉妬しちゃうもの?私にお友達ができ」
由実「…紫。わざとやってんなら、それは許さないよ。」
紫「…由実」
由実「普通になんかなれやしないんだから。」
紫「言わないで」
由実「私を普通から引き離したくせに。」
紫「由実」
由実「許さない。紫が幸せになれない今世なんて。」
紫「由実っ」
由実「普通じゃなくて、いいじゃん。」
紫「私は、普通になりたいの」
由実「…無理だよ。」
由実「だって、紫。私のこと好きじゃん。」
由実「どうしようもなく、好きなはずじゃん。」
由実「私に意地悪したくて花咲と結婚したんでしょ?」
由実「私に嫉妬されたくてお友達も作ったんでしょ?」
紫「…言わないで。」
由実「好き。」
紫「やめて」
由実「大好き。」
紫「由実、」
由実「花咲が出張から帰ったら、2人で殺して北海道の青い海に沈めようか。」
紫「っ、」
由実「そう思ってるよ。ずっと。」
紫「やめて、」
由実「今いいなって思ったでしょ。」
紫「ゆみ」
由実「でも、今まで散々意地悪されたんだ。すぐには叶えてあげないよ。好きにさせた責任、とって。」
由実「死ぬまで許さないよ。一生かけて償って。」
------
由実N「あの日はじめて、本音と欲望を彼女にぶちまけた。翻弄されてばかりの日々を私はこの手で終わらせた。」
紫「巌水展、チケット取ってくれたの?」
由実「そう。好きなんでしょ?」
紫「うん。」
由実「知り合いに貰ったの、特別展示室も見られるやつ。」
紫「え、嬉しい。」
由実「初日分を貰ったけど、それでいいよね?」
紫「あ、」
紫「うん。」
由実「別の日がよかった?」
紫「ううん。初日で大丈夫。」
由実「何その言い方。ムカつく。」
紫「なんで」
由実「初日“で”ってなに?他の日がよかったの?」
紫「だから、違うってば。」
由実「ふーん。」
由実「ま、他の日は例のお友達と行きなよ。」
紫「…またそんな意地悪言う。」
由実「他の展示は変わらないけど、特別展示室があるのは初日だけだってよ。」
紫「そう、なんだ。」
由実「うん。初日が終わったらバラすって言ってたし」
紫「…そんな細かい事まで、どうして知ってるの?」
由実「内緒。」
紫「へ…」
由実「ねえ。」
由実「そんな顔するの、ムカつく。」
紫「っ、」
由実「…。今度会わせるよ。」
紫「由実…」
由実「だから!ほら。この日、一緒に行こ。」
紫「うん。ありがとう。」
由実N「微笑む彼女は、憎らしいほど綺麗だった。」
_______________
透N「僕が彼女に初めて会った時にはもう、彼女はすでに誰かの花になっていた。駅前の本屋。今でも同じ場所に面置きされている本。間藤恭平の処女作と言われている作品。正確には佳奈美という人物が書き、編集を間藤恭平が行ったとされる。この“恍惚”という本が僕達を引き合わせた。」
…………………
紫「あの。すみません。」
透「…はい?」
紫「その本、好きなんですか?」
透「へ、あ、…はい」
紫「私も、その本好きなんです。」
透「は、はあ、」
紫「あ、ごめんなさい。その、複雑な内容だからあまり人に共感してもらえなくって、つい嬉しくて。」
透「そう、なんですか。」
紫「私、花咲 紫といいます。」
透「は、早瀬 透です。」
紫「…ふふ。お見合いみたい、」
透「…」
紫「その、よかったらどこかで少しお話ししませんか?」
透N「彼女が言う“偶然”は決して偶然ではなかった。運命でもない。ただの“必然”だ。」
紫「すみません、本を探しているんですが。」
透N「僕が彼女を初めて見かけたのは駅前の本屋だ。心地いい声に思わず手に取っていた雑誌を派手に落とした。店員と話す彼女は柔らかく笑い、奥の本棚へ案内されていた。」
紫「ありがとうございました。」
透N「彼女は大事そうに本を抱え、レジへと向かって行った。抱えられた本には見慣れた作者。」
透「間藤。」
透N「それから、ほぼ毎日。本を手にここでまた偶然会えるのを待ち侘びた。」
…………………
紫「…聞いてる?早瀬くん。」
透「はい。巌水展、よかったですね。」
紫「うん。最近どんどん有名になってきて、この間雑誌にも取り上げられてたの。」
透「ドラマとか映画にも監修で入ってましたよ。あ、この映画とか。」
紫「すごい、もう見た?」
透「いえ、まだ見てないです。」
紫「今度見に行かない?早瀬くんがよければ」
透N「紫さんと、その旦那さんの慶一郎さんとは、あれからよく一緒に食事したりする。2人で出かけることも夜以外なら許されているようだ。」
紫「あ、まだ映画館でやってるみたい。」
透「じゃあ次の水曜日とか、どうですか?」
紫「大丈夫、あ、ごめんなさい。その日は病院で」
透「え、紫さんどこか具合が」
紫「ううん。定期検診よ。」
透N「最近。華奢な手がさらに薄くなり、手の甲に2箇所痕が残っていた。」
透「これの、定期検診?」
紫「…気付いてたの?」
透「最近痩せましたよね。」
紫「ちょっと不安定なだけよ。」
透「慶一郎さんには?」
紫「知ってるわ。一緒に行くの。病院」
透「…そうですか。」
紫「ごめんなさい」
透「謝ることじゃないです。じゃあ、来週の火曜とか、どうですか?」
紫「火曜日、うん。大丈夫。」
透「何かあったら言ってください。まだ結構上演してるみたいだから。」
紫「ええ。ありがとう。」
透N「微笑む彼女は、綺麗でどこか寂しそうだった。」
___________
紫「おかえりなさい。」
慶一郎「ああ。」
紫「はい、鞄。」
慶一郎「いいよ。」
紫「夕食は?」
慶一郎「20時に和食を予約してある。」
紫「そう。」
慶一郎「…北海道のキンキが入ったそうだから。」
紫「魚?」
慶一郎「ああ。料理長からわざわざ連絡がきた。」
紫「あの頑固な人が?それはちょっと楽しみね。」
慶一郎「りんご、どうだった?」
紫「甘くて美味しかったわ。ねぇ、わざわざ兎に切ったのは理由があるの?」
慶一郎「いや、特にない。」
紫「ハウスキーパーの方、笑ってたわよ。」
慶一郎「どうして?」
紫「ふふ。内緒。」
慶一郎N「ふわりと笑う彼女、少し緩くなった左手の指輪がチラついた。」
慶一郎N「俺はあの日彼女に恋をした。」
………
紫「知ってる?足が綺麗な女には気をつけなくちゃいけないのよ。」
慶一郎N「雨の中、ずぶ濡れで座り込んでいた彼女を無理矢理介抱した。体のあちこちに散らばる火傷の痕。落ちる水滴が凹凸のある傷痕を舐るように這っていく。」
紫「人を騙して上手に生きる術を持ってるんですって。」
慶一郎「それの何が悪い。」
紫「騙されて喜ぶ人がいる?」
慶一郎「騙される方も悪いだろう。」
紫「…変な人。」
慶一郎「そうかな。」
紫「私が人を誑かしたりしないように、お父さんは痕を付けたの。」
慶一郎「…」
紫「傷モノは誰も欲しがらないでしょ、って。」
慶一郎「…そうか。」
紫「…優しい、でしょ」
慶一郎「…そう、だな。」
紫「あなたに咲かせてもらう花はきっと幸せね」
慶一郎「…なんの話だ。」
紫「大きなお家に、大きなバスタブ。あなた何の苦労もせずに育ったでしょう?」
慶一郎「…」
紫「幸せしか知らない人が育てる花は、きっと幸せよ」
慶一郎「嫌味のつもりか?」
紫「あら、嫌だった?」
慶一郎「…試してみるよ。」
紫「何。」
慶一郎「俺に育てられた花が幸せかどうか。」
慶一郎「中庭の花壇。花が咲いたら聞いてみてくれ。幸せかって。」
紫「…ふふ、本当に変な人。」
………………
慶一郎N「俺は高貴で美人な紫より、柔らかく笑う彼女が好きだった。過去にも未来にも囚われない、ただその瞬間の彼女が好きだった。」
紫「あれ?慶一郎さん?」
慶一郎「なんだ。」
紫「この傘、誰の?」
慶一郎「ああ、取引先に出向いた時誰かが間違えて持って行ったようだから。コンビニで買ったよ。」
紫「…めよ」
慶一郎「ん?」
紫「これじゃ、だめよ。黒い傘にして。」
慶一郎「…」
紫「あなたの傘は黒くて大きい傘なの。これじゃ、ダメだわ。」
慶一郎「…高砂に行く前に、新しいものを買おう。」
紫「…ごめんなさい。」
慶一郎「謝らなくていい。また、選んでくれるか?」
紫「…ええ。ありがとう。」
慶一郎N「微笑む彼女は、いつまでも囚われたままだ。」
_________
由実「紫ー!こっちこっち!」
紫N「巌水展初日。混むだろうからと少し時間をずらして待ち合わせした。展示会はいつもお昼前から開場されていたのに、なぜか今回初日だけは8時から入場できるようだった。由実が用意してくれたチケットは特別なもので彼女の名前まで手書きで書かれていた。」
由実「さっき開場の前通りかかったけどもう並んでたよ。最近急に人気出たよね。」
紫「この間アイドルと対談もやってたもん。あの、よくCMでてる…」
由実「ああ、釘崎アリスね。」
紫「そうそう、そんな名前の」
由実「私あの子胡散臭くて好きじゃない。」
紫「そう?綺麗な顔してると思うけど。」
由実「顔はね。綺麗だと思うけど、何だろ。何となく」
紫「へー。」
由実「あ、これ多分もう売り切れてるだろうからって。」
紫「え、これ…」
由実「初日しか販売しないって言ってた写真集。オンラインでも販売しないって言ってたから。」
紫「由実、どこからこれ、」
由実「…知り合い。今日きてくれたお礼。」
紫「ありがとう…とっても嬉しい。あとで喫茶店行こう。そこで開けてもいい?」
由実「ふふ、いいよ。」
紫N「由実から渡された本の表紙には、昔初めてみた展示会で1番最後に見たひまわりが載っていた。真っ二つに比較された花の顔。きっと初日の顔だろう鮮やかな黄色と、私が見た最終日の黒くくすんだ顔。」
由実「あ、特別展示室今空いてるって!」
紫「そうなの?」
由実「先にそっち行く?」
紫「…」
由実「順番通りがいいんだ?」
紫「うん。ダメ?」
由実「ううん。別に私は人多くても平気だし。紫がいいんならいいよ。」
紫「ありがとう。」
由実N「巌水燈は私の幼馴染だった。彼女が美術科に行くと言っていたのは知っていたけれどまさかここまで有名になっていたとは思わなかった。紫が彼女を好きなことを知った時、幼馴染だと言わなかったのはきっと紹介したくなかったからだ。嫉妬した。まだ会わせてもいない彼女に。向けられるであろう好意に、ひどく嫉妬した。だから言えなかった、いや言わなかった。」
紫「はぁ、見て由実。」
由実「うん。綺麗だね。」
紫「この前の展示会でもこの色のクロッカスあったわ。」
由実「クロッカスって言うんだ。意外にかっこいい名前だね。」
紫「すごく楽しそう。見てて温かい気持ちになる。」
由実N「フラワーアート展らしい花に溢れた一部屋は黄色や淡いピンク色の花が所々でこちらを覗いている」
紫「…あれ、」
由実N「隣の部屋に差し掛かると雰囲気は一変した。赤黒い花、一輪で様になるような大きな花や季節外れの首の折れたひまわり。」
紫「これ、何だか悲しい。」
由実「雰囲気変わったね。」
紫「ねえ、この花。由実知ってる?」
由実「これ?知らない」
紫「ダリアっていうの。可憐とか優雅とかそんな花言葉。」
由実「…詳しいね。」
紫「花の本を読んだの。巌水先生の世界に近づきたくて。」
由実「…」
紫「ダリアはね他にも花言葉があって、裏切りとか不安定とか…」
由実N「部屋を重ねるごとに口数が減っていく紫。最後の部屋は特別展示室。その一室が視界に入った瞬間、耳を疑うような声が奥の部屋から聞こえた。」
アナウンサー「昨夜未明、波打ち際に男女が倒れていると通報があり、駆けつけた海上保安部などによりそれぞれの死亡が確認されました。身元を確認したところ、亡くなられた女性はフラワーデザイナーの巌水燈さんだということが分かりました。現場は未だ騒然としており引き続き検証が行われているとのことです。」
紫「…な、に」
由実「…何今の?ニュース?」
紫「巌水先生が、」
由実「…ちょっと待って。ただの冗談だって。」
由実N「固まったままの紫を横目に私は携帯でニュース欄をクリックした。」
紫「由実、どうしたの」
由実N「まずい、覗き込まれてはいけない。そう思った頃にはもう遅かった。」
紫「ーっ!」
由実N「ガタガタ震える紫の体、奥の部屋からも何か叫んでいる声が聞こえたが言葉として認識できない。喉を締め付けられるような浅くて早い紫の呼吸。その異常さにすぐスタッフに声をかけ救急車を呼んでもらった。」
____
医師「…旦那さんにご連絡しております。もうじき来られるかと思います。」
由実「…先生。発作だと言いましたね。」
医師「…個人情報ですので詳しくはお話できません。」
由実「先生。…大切な、友人なんです。」
医師「…彼女は少し不安定で、うちに通院しています。」
由実「これ。この痕は、何ですか。」
医師「幼少期に、受けた傷痕だと。旦那さんから聞いております。」
由実N「私が次に口を開く前に、先生は軽く頭を下げて病室から出ていった。これ以上話せないという事だろう。消毒液のツンとした匂いが立ち込める。ベッドに横たわった彼女はいつからだろうか、随分痩せていた。」
由実N「手の甲から流し込まれている経管。左手の薬指が鈍く光っていた。」
慶一郎「失礼します。」
由実N「顔を上げると、もう何年も避け続けていた顔があった。」
慶一郎「君は、」
由実「あんたのせいだ。」
由実N「込み上げたものが瞼から溢れてしまいそうで、私は逃げるように立ち去った。」
____
慶一郎N「紫が倒れた、そう医師から連絡がきた。手元の仕事を放り出して病院に向かったが、すでに処置が済んでいたようだった。病室を聞き、部屋の前で担当医と鉢合わせた。」
医師「花咲さん。」
慶一郎「妻は、」
医師「今は落ち着いているよ。外での発作は初めてだったね。」
慶一郎「今朝も薬は飲んでいたのですが…」
医師「ショックなニュースを見たそうだよ。付き添ってくれたご友人が適切に処置してくれたそうだ」
慶一郎「友人…」
慶一郎N「1番に浮かんだ顔は、彼だった。」
慶一郎「彼は、どこに」
医師「彼?いや、付き添いの方は女性だったよ。多分まだ病室に、」
慶一郎「失礼します。」
慶一郎N「医師の言葉を遮って俺は扉を開けた。そこに居たのは、」
由実「あんたのせいだ。」
慶一郎N「覚えている。脳裏に走る記憶の断片、彼女の声。」
…………
由実「紫のせいだよ。」
紫「なんで?」
由実「なんでも!」
慶一郎N「俺は誰も手入れをしていなかった中庭の花壇にチューリップの球根を植えた。聞き覚えのある声に顔を上げると彼女がいた。」
紫「ねえー。」
由実「なに」
紫「なにが私のせいなの?」
由実「…今朝。」
紫「今朝?」
由実「一緒に登校してきた人。誰?」
紫「2組の花咲くん。」
由実「だから誰」
紫「2組の花咲くん。近くで会ったの。」
由実「…」
紫「おはよう、って言うから。おはよう、って言ったの。」
慶一郎N「いつもの彼女とは違う、艶のある話し方。」
紫「なんで由実にわかるの?」
慶一郎N「試すような、媚びるような口調。」
紫「いいよ。」
慶一郎N「羨ましい、そう思った。」
由実「今は、私の時間でしょ。」
慶一郎N「途端、目の前で火花が散った。ベージュのカーディガンを着た女子生徒が彼女を包み、俺を見下ろしていた。」
由実「それ以上見るなら。枯らすよ、花咲。」
慶一郎N「俺の目を真っ直ぐ見て突き刺すようにそう言った。」
………
紫「…」
透「紫さん。こんにちは。」
紫「早瀬くん、わざわざ来てくれたの?」
透「今日会う約束してましたし、慶一郎さんからも連絡もらいました。大丈夫ですか?」
紫「…大丈夫よ。ちょっと動揺しちゃって。」
透「巌水先生、ですよね」
紫「もう詳しくニュースで出てるんでしょう。あの人全然見せてくれないから。」
透「紫さんを思ってのことですよ。」
紫「しばらくは薬の量を増やすそうだから、あまりよく考えられないの。」
透N「先日急に慶一郎さんから“紫が体調を崩している”と連絡が来た。顔を出してやってはくれないか、そう言う彼はいつになく冷静で淡々と話していた。」
紫「ねえ、早瀬くん。少しでいいから教えて?」
透「巌水先生は、自ら命を絶ったと警察は見ているみたいです。一緒にもう1人亡くなった男性がいるんですが、その人と手首を布で結んでいたそうですよ。心中、とか。そう、世間では。」
紫「心中…」
透「大丈夫ですか?」
紫「…先生が、」
透N「虚ろな彼女の目は何を映しているんだろうか。右に左に移動していた黒色がやがて真っ直ぐを捉える。」
紫「早瀬くん。展示会行った?」
透「いえ、まだ。でも1日も休まずまだ展示されていますよ。」
紫「見てきて。」
透「…はい。」
紫「きっとあの展示会は、巌水先生の人生を表現したものだったのかもしれないわ。」
透「そうですか。」
紫「部屋を進むにつれて、嫌な感情が増えていくの。キラキラしてた星達が死んでいくように。初日よ。まだどの花も枯れていなかったわ。それなのに、」
透「心情を表していたのなら、何か思い詰めることがあったのかもしれないですね。」
紫「でも、でもね。最後の部屋、あの部屋だけは素敵だった。」
透「最後の部屋。」
紫「アイビーと、バラと、あと、」
透N「ヒュッ、と彼女の喉が鳴る。」
透「紫さん。展示会僕も見に行きますから、その日の楽しみにさせてください。」
紫「…あ、ああ、そうね。全部話してしまったら、ダメね。ごめんなさい。」
透「いえ。もっと楽しみになりました。」
紫「そう…また行ったら教えて。」
透「恍惚、読んでたんですか?」
紫「いいえ。あの人が置いていったの。」
透「慶一郎さんが?」
紫「ええ。好きな本だからって。」
透「優しいですね。」
紫「私、親友がいるんだけど。由実っていうの。」
透「由実、さん?」
紫「そう。でも、由実は彼が嫌いだからこう上手くいかなくって。」
透「…」
紫「同級生なのよ。同じ学校でね、お互い顔は知ってる仲。でも、私が引き裂いちゃった。」
透「由実さんは、紫さんが好きなんですね。」
紫「…そうね。」
透「紫さんは?」
紫「好きよ。」
透「じゃあ、慶一郎さんのことは?」
紫「…」
透N「ベッドサイドに置かれた本を手に取ると、彼女は表情を歪ませる。」
紫「あの人は、」
_________
由実N「経理課はあまり来客がないはずなのに、この部屋に似合わない高そうなスーツを着た背の高い男が部長と話しているのが見えた。」
由実N「すぐにわかった。憎らしい花の香り。」
慶一郎「潮見さん。」
由実「名前覚えてたんですね」
慶一郎「少しお時間いただけませんか。」
由実「仕事がありますので。」
慶一郎「では、あなたの上司に連絡して時間を空けていただきます。」
由実「…」
慶一郎「それならいいですか。」
由実「そういうところが、嫌いなのよ。」
慶一郎「…。」
由実「あんたはいつもそうやって、裏から手を回して自分の欲望を叶えようとする。真っ向から向き合ったりしたことないんでしょ。」
慶一郎「…少し話しませんか。」
由実「離席、伝えてくるから待ってて。」
由実「お待たせ、しました。」
慶一郎「いえ、」
由実「わざわざ時間作ったんだから、たっかいカフェでも連れて行きなさいよ。」
慶一郎「あ、ああ。潮見さんの好みを俺は知らないから、何がい」
由実「もう、そこでいい。」
慶一郎「じゃあ、そこに」
由実「あんた。そんな喋り方だったっけ。」
慶一郎「いや、」
由実「普段通りにしたら。気持ち悪い。」
慶一郎「ホットコーヒー1つ、それと」
由実「これ、お願いします。グラスは1つで。」
慶一郎「…ビール」
由実「ノンアルコールよノンアルコール。悪い?」
慶一郎「…俺は潮見さんのそういうところが羨ましいよ。」
由実「何?」
慶一郎「いや。」
由実「…話って。紫のことでしょ。」
慶一郎「…ああ。ちゃんと礼を伝えられていなかったから。ありがとう。」
由実「別に。あんたに礼を言われる筋合い無いんだけど。」
慶一郎「それで、発作時のことをもっと詳しく聞きたくて。」
由実「…お医者さんにちゃんと話したわよ。」
慶一郎「そうだろうが、もう少し詳しく、」
由実「聞いてどうするの。」
慶一郎「次を防ぐためだが。」
由実「次って…。」
慶一郎「今回は紫の好きな華道家の死が引き金になったと聞いた。もうこの事でああならないように」
由実「二度と見せないってこと。」
慶一郎「…そうだ。」
由実「あんた、馬鹿じゃないの。」
慶一郎「…やはり君が羨ましいよ。」
由実「何言って、」
慶一郎「臆せず思ったことをちゃんと口にできる。間違ってることはちゃんと間違ってるって言える。」
由実「…そんなことない。ずっと言うの我慢してたの。あんたと紫が一緒になっても、ずっと言わないようにしてた。」
慶一郎「…」
由実「なんでかわかる?」
慶一郎「…」
由実「あんたが変えてくれるって。紫を変えてくれるってどっかで信じてたの。」
慶一郎「紫は囚われてるんだ。ずっと過去に。」
由実「あんたはそれを囲ってるだけだよ。」
慶一郎「…」
由実「現状維持。それ続けて何になるの?」
慶一郎「どうするのが紫にとって1番いいのか、どうするのが1番傷つかなくてすむのか、俺だって毎日考えてる。」
由実「傷付かなきゃ進めないことだってあるんだよ。」
慶一郎「君は知らないだろう。彼女がどれほど苦しんでいるのか。」
由実「知らないよ。あんたが連れていったんじゃん。」
慶一郎「っ、」
由実「あんたが勝手に連れていったんだよ。いつまで牢屋で囲ってんの。何にもできない腑抜けなら、早く紫をそこから出してよ。」
慶一郎「俺は、」
由実「私は、紫を傷付けることになったとしても、今のままにはしない。私は紫が好きだから。あんたより。ずっと。」
慶一郎「…」
由実「今度、北海道の湖連れてってよ。」
慶一郎「な、」
由実「“恍惚”」
由実「あんたが行かないんなら2人で行くから。」
慶一郎「待ってくれ、俺は」
由実「いい加減。腹括りなよ。」
慶一郎「…」
由実「私が目を覚まさせてやる。」
由実N「憎らしい花の香りは、私を酷く焚き付ける。」
_________
紫「おかえりなさい」
慶一郎「ああ。」
紫「鞄、」
慶一郎「いや、いい。」
慶一郎「体調は、どうだ。」
紫「ええ。大分良くなったと思うわ。あなたお昼戻ってたのね。声かけてくれればよかったのに。」
慶一郎「眠っていたようだから。」
紫「さくらんぼ、ありがとう。」
慶一郎「八百屋で甘いと勧められたから。」
紫「八百屋って。似合わない言葉」
慶一郎「似合うも似合わないもないだろう。」
紫「とっても甘くて美味しかった。」
慶一郎「そうか。」
紫「夕食は」
慶一郎「作るよ。」
紫「最近ずっとじゃない。もう体調もいいし外でも」
慶一郎「じゃあ明日は店を予約しておくよ。」
紫「…」
慶一郎「座ってるといい。」
紫N「長い指で器用にネクタイを外す。キッチンに立つ姿はここ最近見慣れてしまった。容量のいい人だと昔から思っていたけれどここまで何でもできる人だとは思っていなかった。」
慶一郎「…早瀬くんが、来てくれたそうだな。」
紫「ええ。」
慶一郎「わざわざ連絡をくれたよ。」
紫「…そう。」
紫N「トン、トン、と落ちる包丁の音。俯いた瞳が揺らめいた気がした。」
慶一郎「紫。」
紫「なに?」
慶一郎「…これ。」
紫N「差し出されたのは、見覚えのあるチケット。」
慶一郎「取っておいたんだ。きっと最終日、見たいかと思って。」
紫「慶一郎さん…」
慶一郎「こんなことになるなんて、思っていなかった。だから渡すべきか迷っていたんだが。」
紫「…」
慶一郎「2枚ある。たぶん展示会として見られるのは最後だろうから。好きな人と行くといい。」
紫「でも、」
慶一郎「きっと、見に行かなかったら後悔するだろう。何かあっても対処できるように手配しておくから。気にするな。」
紫N「鮮やかな紫陽花が描かれた“巌水燈展”の文字。そっとカウンターテーブルに置かれたそれはゆらゆら霞んで見える。」
慶一郎「言っておくが、もう売られていないぞ。」
紫「分かってる。初日だってあんなに人気だったんだもの。」
慶一郎「ああ。」
※エンディング分岐
【透END】
(https://kakuyomu.jp/works/16817330656812316418/episodes/16817330656813443898)
【由実END】
(https://kakuyomu.jp/works/16817330656812316418/episodes/16817330656887062144)
【慶一郎END】
(https://kakuyomu.jp/works/16817330656812316418/episodes/16817330656887121708)
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