たくま君

春人

第1話

学校に行かなければいけない時間なのに海老川を歩いている。季節は春で出店が沢山出ており、桜も咲き誇っている。モヤモヤとした気分のまま歩いている所為か、目の前の桜や出店の賑わいを今は何とも感じることはない。僕の横を数人の子供が駆けて行く。その子達を目で追うと、海老川の上にかかる橋が目に入る。

その瞬間、ここに引っ越してきた当時のことを思い出した。


たしか7度目の引っ越しだった。当時小学生だった僕は仕事の都合での転勤の多さにうんざりしていたけれど、両親が言う、「仕事だから仕方がない」という言葉を素直に受け入れていた。

子供のくせに妙にすんなり受け入れるものだから、気を遣って、「どんなところも住めば都だから」と言ってくる両親を笑顔でやり過ごしていた。その言葉の真意も両親の気遣いも良く理解できていたと思う。しかしこの言葉は僕をひどく落ち込ませる言葉だった。そういうことじゃない……と言い返したいのは山々だったけれど、子供の自分が何か言っても大人の行動を変えることができないことは分かっていたので、黙って頷く事しかしなかった。

これまで関西圏を転々としていたが、この七回目の引っ越し(これで最後になる)は関東圏への引っ越しだった。いつもとは違う不安があった。関西弁を笑われたらどうしようとか、今までずっと関西にいて友達が出来なかったのに、関東なら尚更できないんじゃないか、とか。

今思えば多少の違いはあれど関西も関東も同じ日本な訳で、心配する必要はない。しかし当時の僕にとっては本当に切実な問題だった。

引っ越しの当日、不安から愛着も何もない社宅のがらんとした部屋を眺めていると涙が溢れてきたのを覚えている。


千葉の船橋に引っ越してきた。

船橋駅から徒歩十分圏内にある社宅で暮らす事になった。内装は以前と同じだが以前より狭くなったように感じた。

関西にいる時は駅の近郊になど住んだことがなかったので、こんなにも人が多く、駅に直結したデパートがあったり、無数の飲食店があったり同じコンビニが数軒先に並んである光景に驚いた。そういう未知の場所は僕の心をより一層不安にした。

 新しい学校に通いだし、一か月が過ぎても友達は出来なかった。元々社交的な性格ではない上に、みんな綺麗な標準語で会話しており、関西弁が出てしまう事を恐れて普段よりも喋らなくなった。それが原因でいじめにあったりはしなかったが、無口な子という印象が定着し、時間が経つにつれて話しかけられなくなり、寂しい日々を過ごした。

 家の近くにある、天沼弁天公園という大きな公園に一人で学校終わりによく行っていた。

大通りに面した広場では当時の僕よりも幼い子を連れた母親同士が楽しそうに会話しており、広場の真ん中にはよく手入れされた円状の花壇に色とりどりの花が植えられていた。

その花が子供達が楽しそうに遊ぶ空気とよく似合っていて、疎外感を覚える。それが辛かったので見ないようにして、奥にあるもう一つの広場へ駆けて行く。そのもぅ一つの広場が僕のよく行く場所だった。僕は当時、野球漫画の影響で野球が大好きだった。けれど誰かに教わるわけでもなく、見ることに熱中していた。この広場では僕と同じか、もう少し上の子たちが鬼ごっこをしたり、サッカーをしたり、活発に遊んでいる。そういう子達をただひたすらに眺めて、頭の中で私もそこに入って楽しくみんなで遊ぶという想像をしていた。

中でも一人で黙々と壁当てをしたり素振りをしている男の子をよく見ていた。小学二年生の僕と比べると身体は一回り大きく、投球フォームはプロ野球選手のように美しく、投げる球は速い。球が壁に当たる度に、ポンッと小気味良い音をたてる。僕はその姿を食い入るように見て、その姿を自分と重ねて、例の如く想像していた。すると突然、座っている僕の目の前に手が現れ、その手が上下に動く。ハッとして顔を上げると、壁当てをしていた男の子が目の前に立っている。驚き、少しのけぞる。「あ……」何を言えばいいかわからず口をパクパクさせることしか出来ない。目の前で見る男の子は当時の僕にとって大人と変わらないと思わせる程大きくて、大人びて見えた。「毎日見てるよね」

そう言って笑った。僕はその優しい、親しみやすい笑顔を見て、本当に自然に涙が出た。

男の子は焦った様子で、「どうしたの?」と言い屈む。僕は必死で「なんでもあらへん、なんでもあらへん」と言った。その男の子の名前はたくま君と言った。心にあった不安や辛さをたくまくんに話した。僕の話を熱心に聞いてくれた。自分だけ関西弁なのを気にしていることも話すと、「ええやん!ええやん!かっこいいやん!関西弁!」と関西弁を真似てくれた。

その頃には僕も笑顔になって、溜め込んでいた不安や辛い思いは薄れていた。「見てるだけじゃ、面白くないでしょ?」「でも、下手くそだよ」「いいからいいから」そう言うとたくまくんは僕の手を引いて、立ち上がらせた。

「待って、それならグローブ取ってくる」

僕は家に戻って、ホームセンターで買ってもらった安物のグローブを取りに行った。経験したことの無いほどの胸の高鳴りを感じながら、急いで走った。

戻ると、たくま君はグローブを貸してと言って、僕のグローブを念入りに触り始めた。しばらくして、「ほら」とグローブを返してきたので、それを手にはめると以前よりも使いやすくなっている。「高いものじゃなくても、キッチリ型をつければそれなりになる」「ありがとう!」グローブはとても使いやすくなっていた。

そうしてキャッチボールを始めた。下手くそすぎて笑われるかと思ったけれど、たくま君は「悪くないよ。初めてにしてはとても上手だよ」と言ってくれた。それから一時間程キャッチボールや、投げ方を教えてもらったりした後に、たくま君は塾に行くと言って帰り支度をしながら、「俺がいる時はいつでも声かけてよ」と言うので、僕は何度も頷いて、自転車を漕いで遠くなる背中に大きく手を振り続けた。

僕も帰ろうとして、出口へ向かうと風が吹いた。その瞬間、花壇の花が可愛らしく揺れる。

毎日見ないようにしていたこの花がこんなにも可愛らしく素敵に見えたのはこの日が初めてだった。

それからほとんど毎日の放課後をたくま君と過した。キャッチボールだけでなく、バッティングや守備の練習も教わった。ある時、僕はこうして教えて貰えるのはありがたいけれど、たくま君はいつ練習しているのかが気になって、聞いてみた。すると意外な返事が返ってきた。

「中学では、野球はやらないんだ。だからもう練習はしてない」何かを堪えるような表情でグローブのポケットをパンパンと叩いた。それを聞いてとても寂しい気持ちになった。「そっか、でも中学生になっても教えてくれる?」そう聞くとしばらく考え込んだ後にいつもの優しい笑顔で、「もちろん」と言った。

その表情に安心して、ブンブンとバットを振った。「そんなに大振りしてたらボールに当たらないぞ」


母と一緒に東武デパートに買い物に来た日、確か土曜日の昼過ぎだったと記憶している。

書店で漫画を買ってもらい、七階のレストラン街へエスカレーターで登っていくと、左側にチェーンのカフェがある。そこをふと見遣るとたくま君がいる。手を振ろうとしたけれどたくま君の横に母親らしき女の人がいて、手前には見覚えのあるが明確に思い出せない男の人がたくま君の正面に座り真剣な表情で話をしている。

僕が気軽に手を振っていいような状況ではないことは厚いガラス越しからでも分かった。

しばらく見ているとたくま君が目を擦る仕草をし、俯いた。「何してるの?行くよ」

そう母に言われて、その場を立ち去ったが、その後に食べたトンカツは何の味もしなかった。

母と買い物を終え、帰宅すると、グローブを持って直ぐに公園に向かった。たくま君が来るか来ないかは分からなかったが、行かなければならないという使命感のようなものが僕を突き動かした。

僕はあのカフェで見た、たくま君の仕草を何度も頭の中で反芻しながら壁当てをする。

きっと、何か悩んでいる事があるんだ。それでも僕を助けてくれたたくま君に何もしてあげられない自分が悔しい。教わったフォームを崩さないよう、丁寧に投げることをいつも心掛けている僕だったが、この時はただ無心で投げた。

僕のこの気持ちとは裏腹に背後から突然「丁寧に意識してやらないと、どれだけやっても上手くならないぞ」と声をかけられた。ハッとして後ろを振り向くと短パンにジャイアンツのエースピッチャーのレプリカユニフォーム姿のたくま君がたっている。僕はさっきのたくま君と今目の前にいるたくま君を見て胸が熱くなったけれど、いつも通りに接してきてくれているので僕もそれを抑えた。

「いつも言ってるでしょ?リリースポイントを意識しなくちゃ」「うん。ねえ中学になって野球を辞めても偶に遊んでくれる?」「当たり前じゃん」不安な気持ちでたくま君を見つめる。たくま君はボールを拾って壁に向かって投げる。壁に当たったボールはバウンドして戻ってくる。「でも、同学年の子とも、仲良くならないと面白くないよ?」と言う。そんなことないよと言い返そうと思ったけれど、そうは言えなかった。

ただ俯くだけしかできない。ボールがこっちに転がってくる。それを取ってたくま君に投げ返す。

色々な想いが乗ったキャッチボールだった。

帰り際に、「しばらく勉強で忙しくなるからここに来れない。俺がいなくてもサボらず練習しろよ」と言った。この声色には僕の事を芯から思って言ってくれているのだと思うことができるものだった。

この時の僕は両親から転勤を告げられるときのように物分りのよい子供として振舞った。


たくま君を心配させない為にも、心を入れ換えて、積極的にクラスメイトに話しかけることに決めた。

関西弁のことなんて気にしないことにした。それにカッコイイと褒めてくれたからついででしまっても大丈夫だと思えるようになっていた。寧ろ逆に、関西はこことどう違うとか、給食はどっちが美味しいかとか、他愛もない話で仲良くなる事が出来た。クラスメイトに野球クラブに入っている子がおり、自分も野球が好きだと伝えると、是非一緒にやろうと言ってくれた。

僕は土曜日に一人で校庭に行ってみた。そこでは確かに十人以上の子供達が野球の練習をしていた。誘ってくれたクラスメイトの田岡が僕を見つけて、近寄ってくる。

野球クラブは土日祝日に練習や試合をしているらしく、コーチの九割がクラブに入っている子供の親だと言う。田岡が見てるだけじゃつまらないからと僕を大人の方に連れて行くと、「お父さん。コーチやってるから一緒にやって」と言って練習に戻っていく。僕は田岡のお父さんに頭を下げた。

「こんにちは。まずはキャッチボールをしようか」準備体操をして、持ってきたグラブを手にはめた。

よろしくお願いしますと言うと、よろしくと返ってくる。僕はたくま君以外の人とキャッチボールをするのは初めてで緊張していた。それでもたくま君に教わったことをしっかりと意識してボールを投げた。

未経験と田岡には伝えていたから、田岡の父も僕がしっかりキャッチボールが出来ることに驚いていた。軽いノックやバッティングもさせてくれた。たくま君に教わっていたからいつも通り動けた。

「すごいね。自分で練習してたの?」「いえ、と、友達に教わって」「へえ、その友達はきっととても上手なんだろうね」そう言われたのがなんだか自分の事のように嬉しくて笑顔で頷いた。

家に戻り、両親に野球クラブに入りたいと伝えた。両親は驚いていたけれど、快く承諾してくれた。

父も母も野球には疎く、土日祝日は基本仕事の為、見に行ったり手伝いは出来ないことを心配してはいたが、僕が最近明るくなって、野球に夢中になっていることをとても喜んでくれた。

それでも僕は基本的に放課後は公園に行って自主練するようにしていた。たくま君の気まぐれか気分転換に来た時にいつでも一緒にキャッチボールができるように。


野球クラブに入ってからもう九ヶ月が経ち、三年生になる前の春休みを楽しんでいた。

僕はもう学校では元気に遊び回り、休みの日は必死に練習して、今までからは考えられない程楽しい生活を送っていた。この頃には、公園に行く回数も少なくなっていた。同学年の子達と遊ぶ事に夢中だった。毎年三月の終盤から四月の前半、桜が散るまで海老川には屋台が出る。

僕は野球クラブの何人かと、母に少しのお小遣いをもらって遊びに行った。

焼きそばやたこ焼き、綿菓子やあんず飴。桜や、その桜で化粧された川になど目もくれず僕達は食べて走ってギャハギャハと笑いながら遊んでいた。

そうして歩いていると、川の上に掛かる橋をたくま君がカフェで見た母親らしき人と歩いている所が見えた。僕は無意識のうちに入りだしていた。田岡の、「どこに行くんだよ!」と叫ぶ声が聞こえるが、それを無視して全速力で人を避けながら進む。追いついて、肩を叩いた。

振り向いて僕の顔を見ると、とても驚いたような顔をしている。僕はニッと笑った。

すると隣にいた女の人が遮るように前に出た。その表情は怒っているように見え、萎縮する。

すぐにたくま君が、「母さん」と言う。そしてたくま君と母親は2人で話をした後、僕の方に来て、「行こう」と言って先を歩き出した。僕は女の人を横目で見ながらついて行った。橋を渡ってすぐのベンチに腰を降ろすと、「野球、まだ続けてる?」と聞いてきた。

「うん。クラブに入ったよ」「良かった良かった」「たくま君は勉強忙しい?」「うん。忙しいよ。今日は息抜に来たんだ」「あのね、コーチに褒められたんだ。未経験なのに上手いって。教えて貰ったからだって言ったら、コーチがね、その教えてくれた人は上手なんだねって言ってくれたの。またたくま君とキャッチボールしたいな。上手くなったんだよ?球も速くなったよ。コントロールも。ねえ中学でも野球……」

しわくちゃな顔で涙を堪えているたくま君を見て続きを言えなくなった。溢れてきた涙を手で拭うとあの素敵な優しい笑顔に戻った。「渡したいものがある」ポケットの中に手を突っ込みながら言う。僕はポケットから何が出てくるのかドキドキしながら待った。「これ……」「もう行くね?ほら、友達も待ってるよ」

橋の向こうで、田岡が手を振っている。たくま君はじゃあねとただ一言言うと、行ってしまった。

それぎり、もうたくま君と会うことはなかった。


今になって全てわかる。たくま君がどういう状況だったのか。そしてあんなに素敵な笑顔が出来た理由も。このままじゃ僕はあんな風に笑えない。後ろから春風が勢いよく僕を吹き抜けて、桜が舞う。

顔を上げると、丁度たくま君と最後に話したベンチが前にある。

学校へ行こう。考えるのはやめだ。学校へ行って部活の時に、あいつに声をかけよう。

苦しい時期にたくま君が僕を救ってくれたように。見て見ぬふりなんてしてしまったら、二度とあの笑顔を思い出せなくなってしまう。僕は携帯の内カメラで自分で笑顔を作ってみた。

自分で見る自分の笑顔はとても見れたものじゃなかったけれど、決心する前よりは良い笑顔になってるに違いない。桜が鮮やかな色を取り戻す。晴れやかな気分で、踵を返した。

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たくま君 春人 @mihazyu

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