第8話 京都と春-8

現れた「安吾」は、駿が思っていたよりも若かった。三十代半ばごろの、背の高い男だった。落ち着いた色の上等そうな着流しを身に纏っており、服からは部屋の仲と同じように白檀と少しの煙草の匂いがした。赤みの薄い茶髪を短く刈り込んでおり、骨張った体つきと相まって無骨な印象を与えている。顔のつくりも同様に骨ばってはいるが、穏やかな印象の垂れ目のおかげで生気のなさを感じることはない。全体的に整った顔の造形をしているが、癖のように顰められる眉間の皴のために二枚目といった雰囲気ではない。この状況においてその顔立ちは、七瀬を呑まんとするような威圧的な出で立ちを演出しているに過ぎなかった。

「話は聞いていたな?」

「……はい。」

「幾らなら用意できる?」

「その、あなたの言う通り、すぐに大きな額は用意できません。❘ただ、時間がかかっても良いなら、きっちりご用意します。」

「要領を得ないな。幾らだと訊いてるんだが。」

 用意できる額、というものを駿は全く想像できなかった。今までアルバイトをしたこともなかったし、何かのために大きい金を必要としたこともなかった。あらん限りの資力を費やすだけの大義も趣味も持ってこなかったことを、駿はひそかに悔いた。考えあぐねて黙り込んだ駿に、安吾はきっぱりと言った。

「百万円だ。」

「え?」

「もっと増やしたっていいんだが、俺に子どもを追い込む趣味は無い。大負けに負けて、百万払えば協力はしてやらんこともない。」

 安吾は意地悪く笑いながら続ける。

「確実に助けてやれるとは言ってない、飽くまで協力するだけだ。利子については勘弁してやろう。計算が面倒になるだけだからな。」

 無理だと思うんなら、と続けようとする安吾の言葉尻にかぶせて駿は叫んだ。

「払います!ぴったり百万円払えば協力して貰えるんですね?期限は?」

 掴みかからんばかりの勢いで詰める駿に、安吾は少々面食らったようだった。まさか支払うとも思っていなかった上、ここまで即決するとも思っていなかったのだ。安吾の動揺を見て、駿は少し語勢を弱めた。

「数年はかかるかもわかりませんが、必ず払います。僕に協力してください。」

「……わかった。」

 安吾は苦虫を口に放り込まれそうになっているかのような、心底不服そうな顔でそれを了承した。

「こちらの提示した条件を呑むというのなら仕方がない……。蛍、筆を。」

「は、はい。」

 一連のやり取りを呆然と見ていた蛍は、名前を呼ばれて姿勢を正した。安吾の文机のほうに小走りで向かうのを見届けながら、安吾は言った。

「口約束というわけにもいかん。簡易的ではあるが書面に起こしておく。」

 安吾は根付から下げた小さめの帳簿から紙を一枚破り取り、空中で一振りした。真っ白な紙面に達筆な筆書きの文字が浮かび上がる。契約書に準ずるものだろう。契約書が駿に手渡されると蛍が矢立を持って戻ってくる。

「ここに署名をすれば約束は成立する。❘今ならまだ撤回できるぞ。」

「いえ、そのつもりはありません。」

 駿は蛍から筆を受け取ると、細かい部分のつぶれたような字で、署名欄に「七瀬駿」と書いた。契約内容の詳細は駿には読めなかったが、何が書いてあったところで約束をここで降りるという選択肢はとらなかっただろう。安吾は駿から書類を受け取り、さっと内容を改めた。

「❘確かに。」

 と、安吾はぼそりと呟き、墨を乾かすようにふっと息を吹いた。紙はひとりでに三つに折りたたまれ着流しの袂へと滑り込む。

「それで、僕はこれからどうすべきですか。」

「今晩中の解決は難しいだろう。手立てはないでもないが、少なくとも動き出せるのは明日からだ。」

「じゃあここで一晩……。」

「泊めるわけないだろ。今晩のところは家に帰れ。泊めるにも他の奴らの目があるし、お前が連絡もなしに家に帰らないとなれば本格的に捜索されてもおかしくない。まさか神隠しに遭っていたなんて言えるか?」

「でも元の世界に戻って一人になってしまえば、また蜘蛛に見つかるんですよね。」

「ああ。だから蜘蛛に見つからないよう少し細工をして、今晩は蛍を監視につける。」

いきなり話に持ち出され蛍は大声を上げる。

「ええ!僕で大丈夫ですか?何かあったって、僕あんなの追っ払えませんよ。」

「お前がついていれば然るべきところに助けを呼ぶことが出来る。一晩凌ぐくらいなら問題ない。」

 今度はおずおずと駿が声を上げた。

「えっと、僕も家に人を連れて帰るわけにいかないんですが……。」

「忘れたか?蛍は元々狸だ。裏庭にでも居させておけば、せいぜい野生動物だと思われて構われんだろう。」

「ええ!それも嫌ですよ!吹きっさらしで一晩なんて耐えられません!」

「そこはお前らで相談してくれ。とにかく一晩蛍を貸すから、明日の日の高いうちに返しに来い。そこで今後の話をする。❘とにかく今日は早く帰れ。市場の出口までは送ってやる。」

「はあ。」

 駿は話の精細が掴めないまま、半分生返事のように安吾の言うことを了承した。

 入ってきた時と同じ勝手口から出て、今度は来た時とは反対側に位置する錦天満宮の方へ三人は歩きだした。どうやら皆尻の落ち着けどころを見つけたらしく、先ほどに比べて道は混み合っていなかった。短い距離ではあるが、黙々と歩くのは少々気まずいものがある。場を和ませようとするように、蛍が話し出した。

「珍しいですね、安吾さんがお見送りなんて。やっぱりこうなってしまった以上、七瀬くんは大口のお客様だからですか?」

「客じゃない、債務者だ。」

「ええ、恩を売ったんだからお客さんじゃないですか。」

 駿は蛍と安吾のやり取りを聞きながら、よくこんな人に軽口が叩けるなと少し感心した。

「錦天満宮で少しやることがある。」

「何をです?安全祈願とかですか?」

「ここの結界の一部を切り離して、七瀬につけて帰る。これで鬼蜘蛛が七瀬を発見しても襲われずに済むはずだ。」

 商店街の突き当りに錦天満宮が見えると、安吾はつかつかと歩みを速めた。駿と蛍はそれに続こうと歩調を上げるが、「そこで少しじっとしていろ。」と安吾に制止された。錦天満宮の鳥居から道一本を挟んだほどのところで、二人は立ち止まる。櫓のように組まれた背の高い鳥居には提灯がすらりと吊り下げられており、その奥には小さいながらも凝った造りの拝殿が建っている。周囲には木々が生い茂っており、周りの店の光の一切を遮断している。深緑色に沈んでいる境内を、これまた提灯がぼうっと照らしている。安吾は境内に置いてある線香を三本ほど手に取り、手近にあった提灯の火を移した。煙をくゆらせながら安吾は駿たちの方へ戻って来、線香を手渡した。

「しばらく持っておけ。そうだな……ここから歩き始めて、電車で帰るんだったか。」

「はい。えっと……市営地下鉄で東山まで。」

「なら、蛍は三条大橋を渡り切ったら七瀬を現世に戻すように。そのときにそれも捨てろ。」

「承知しました!」

「俺から話すことはもうない。夜になると狂暴な妖怪が動きやすくなる。とっとと帰れ。」

 安吾はそう言うと、駿と蛍の横をすり抜けて屋敷の方へと戻っていこうとする。

「あの!」

去っていく背中を駿はとっさに呼び止めた。まだ礼を言えていないことを思い出したのだ。黙って振り向く安吾に、駿は続ける。

「❘助けてくれて、ありがとうございました。」

「……礼を言われるようなことはしてない。俺が一方的に施したわけじゃないからな。」

安吾はそういって踵を返すと、今度こそ振り返らず歩いて行った。

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