第7話 京都と春-7
後院通から交差点を曲がって錦小路通に入った途端、人通りが急に増えた。和装に身を包んだ老若男女で賑わっている。先ほどとは打って変わり、通り沿いの飲食店、小売店、その他様々な店舗も営業しており、かなり活気に溢れている様子だ。通り自体がそう広くない上に人がごった返しているものだから、二人とも別々にならないように歩くのに必死だ。駿は困惑したが、その様子を見るなり蛍は言った。
「ああ!なるほど!」
「なるほど……?っていうか、ここっていつもこんな感じ?すっごく混んでるけど」
「いいえ、いつもは錦市場の本通りの、錦天満宮から高倉通までのあたりしか、ここまで混みませんね。」
蛍はあたりを見回しながら続ける。
「ここにいる皆さんは避難してきたんでしょうね。」
「避難って……、一体何から?」
「鬼蜘蛛ですよお。襲われた張本人が何言ってんですか。あの辺りの妖怪は鬼蜘蛛を警戒するよう言われてたみたいですから、鬼蜘蛛が結界を張った時点で避難勧告が出てたみたいです。」
どうやら妖怪間に管理体制が敷かれているというのも、鬼蜘蛛のように凶暴な妖怪はごく少数であるということも本当らしい。
「錦市場にも結界が張ってあるんです。他の妖怪や人間を襲う恐れのある妖怪や、理性を失っている妖怪は入れないようになってます。厄介なお客さんを入れないようにするための作戦なんですが、良い避難場所として使われるようになっちゃったみたいです。」
「それでみんなここに避難してきてるってことか。」
「はい。まだ結界の中ではないんですが、この辺りなら結界の余波も残っていますし、何かあってもすぐ逃げ込めますからね。」
蛍は自分の庭を歩くかのようにずんずん人混みの中を進んでいく。駿も人混みには慣れているものの、やはり周囲に目が行ってしまう。やたらと背の高い人、低い人、色の白い人、変わった髪の色の人……姿形は紛れもない人間だが、極端な身体的特徴を持つ者が妙に多いのだ。駿はそれにいちいちぎょっとして振り返ってしまう。
蛍に遅れること三十秒、二人は高倉通にある錦商店街の入り口に辿り着いた。中は屋根付きのアーケードになっており、天井に貼られた寒色のステンドグラスから翳りかけた火が差し込んでいる。食料品や雑貨、衣服を扱う店はバタバタと閉店の用意を始めており、現在営業しているのは飲食店のみのようらしい。
「蛍の実家って……この中?」
「はい。大きい建物なので、見ればすぐにわかると思います。ここを取り仕切ってる一番の大店ですから。」
アーケードの中を歩いていくと、程なくしてそれらしきものが見えてきた。アーケードから少し引っ込むようにして、檜造りの荘厳な数寄屋門が出ていた。これまた年季の入った立派な表札には「金長商事」の字が浮き彫りにされている。太く力強い腕木からは建物の旧さが、一方白い塗壁からは念入りな手入れがなされていることが見て取れる。前庭らしきものが格子の引き戸から透けて見えるため、建物自体は門から少し奥まったところにあるようだ。門の前まで来ると蛍はくるりと振り返って大手を広げた。
「ここが僕の実家、兼仕事場です!」
「えっと、ご両親がこのお屋敷の持ち主なの?」
「いえ、ここの持ち主はさっき言ってた安吾さんです。ここでは多くの狸が安吾さんの元、住み込みで働いてます。僕は小さい頃親元を離れてここで暮らしてきたので、言うなれば実家みたいなものなんですよね。」
蛍はなぜか誇らしげに胸を張って言う。
❘その「安吾さん」って、一体どんな人なんだ……。
この大店の主人で、錦市場全体を取り仕切っていて、多くの狸の生活の面倒も見ているらしい。優しいが貫禄のある好々爺か、それとも実は人情に熱い入道のような男か……駿には「安吾さん」の姿が全く想像できなかった。
❘どうか優しい人でありますように……。
駿がドギマギしながら門を叩こうとすると、蛍は気まずそうにそれを制止した。
「あ!ごめんなさい、えっと、ここで自慢しちゃった僕も悪いんですけど……。」
そう言って蛍は錦商店街の中道に交差する、細い路地の方を指さした。
「あっちの裏口から入りましょう、ここお客さん用の入り口で、いろんな狸に見られちゃうと思うので……。」
脇の通りに折れ、塀に沿って歩いていくと、先ほどと比べればだいぶ小ぶりな門が設けられていた。表の門と違い、閂に重たい達磨錠がかけてあり、なんとも無愛想に施錠してある。明らかに客人を招き入れるための造りではない。
「ほんとにここから入っていいの?」
「なんでです?出入り口があるんだから、出入りしたら良いでしょう。」
蛍は達磨錠に彫られたレリーフをなぞり、中指で弾いた。
錠前は扉にぶつかった後、ごとりと音を立てて外れ、蛍の手の中に落ちる。蛍は閂を引き、錠前を引っ掛けて門の中へ駿を招き入れた。
「さ、どうぞ。」
「これ、鍵は外のままで……。」
「いいんです。勝手に閉まりますから。」
門の方を振り返りながら進む駿をよそに、蛍は中庭の飛び石を伝って屋敷の方へと進んでいく。
屋敷は門と同じく数寄屋造りで、勝手口のある裏庭側には長い縁側も設けられている。中の様子も少しうかがえる。遠くの屋敷の表の方では何かが歩き回るような家鳴りがしているが、一方で裏庭側はしんとしている。
「勝手口から入っても誰かいるかもしれませんから、ここからは入っちゃいましょう。」
と、蛍は沓脱石を指さした。蛍はそこに草履を脱ぎ捨て、縁側へと上がっていく。駿は靴を置くのはどこか憚られて、またしても指にスニーカーをぶら下げて縁側へ上がった。裸足のぺたぺたとした足音と靴下のひたひたとした足音が静かな廊下に響いている。ひときわ大きい襖の前で、蛍は足を止めた。
「では僕は、安吾さんと話をつけてきます。七瀬君はここで待っててください。」
「いいの?僕から直接話をした方が……。」
「いえ、僕一人で行った方が話が早いと思います。……大丈夫です!きっと何とかしますよ。」
蛍は胸元で小さくブイサインを作って言った。蛍が襖に手をかけると、煙草と香の混ざった匂いが中から漂ってきた。
駿は襖に凭れないよう気を張りながら、部屋に背を向けて待っていた。盗み聞きをするわけではないが、やはり中の会話に気が向いてしまう。部屋からは蛍の声ともう一つ、低く落ち着いた男の声がする。この声の主が、蛍の言う「安吾さん」その人であろうことは駿にも簡単に想像がついた。蛍の高い声はよく通るが、相手方の話す内容ははっきりと聞こえない。声を荒げる蛍に対し、安吾の方は至極冷静に話している様に聞こえる。交渉は難航しているのだろう。駿は汚れた靴下のつま先を見つめながら、蛍が出てくるのを待っていた。自分の唾を飲む音が、いつもよりやたらに大きく聞こえた。
しばらくして耳が慣れてくると、「安吾さん」と思しき人の話す内容も聞こえてくるようになった。「安請け合いするな。」「これ以上関わるな。」「うちのやる仕事じゃない。
❘蛍の訴えを徹底的に突っぱねる姿勢をとっている。交渉は難航どころではないようだった。それでも取り縋る蛍に対し、彼ら極め付けのようにこう言った。
「そいつを助けたところでこちらに何の利益がある?金にならんなら迷惑なだけだ。」
そこには善意も悪意も滲んでいなかった。一足す一が二であると告げるように、ただ損得の計算結果を述べているだけの口ぶりだった。あまりに明確な意思表明に蛍も返す言葉がないらしい。
もう駄目だ。決裂だ。後ろから足音が聞こえて、蛍が出てきて、駄目でしたと告げられ、あの商店街に放り出され、途方に暮れるしかないのだろう。男は一際大きく長いため息を吐こうとし、蛍がそれを遮って、話し始めた。
「待ってください安吾さん、何でもタダでっていうんじゃないんです。」
「じゃあいくら出せる?」
「それは……。」
「子供の小遣いなんてたかが知れてる。」
「でも、でもですよ。ここで七瀬くんを助ければ、僕たちは命の恩人です。」
安吾のわざとらしく大きなため息に続いて、重たい衣ずれの音が聞こえる。彼は徐に立ち上がったようだった。駿は息を呑む。本人から見切ると宣告されるのだろうと考えると、顔が強張った。蛍が何か言いたそうにうろたえているのをよそに、足音は淀みなく背後に近づいてくる。駿は襖の方に向き直って、肚を決めようとぐっと拳を握った。背後の襖が静かに開く。
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