夜の底へ
「……した? 二……ナ?」
電話のノイズはひどくなる一方。
もうターニャの声がほとんど聞こえない。なんて言って答えたんだっけ……
『あだ……ぼご……ぐで……だじゃ……い』
ふいに耳元からくぐもった声。思わず受話器を見る。
「……っひぃ!!」
思わず目を疑った。耳に当てる部分に空けられた無数の小さな穴からじわじわと何か沁み出している。黒っぽくて、粘ついた液体、かすかに甘い……鉄の臭い……?
……気付いた時には液体が受話器から腕をつたってゆっくりと赤黒い筋を作っていた。あまりのことに、受話器を放り出すことすらできない。
つぅ……と垂れた液体は肘からぼたりと垂れる。
ゆっくりと落ちていく赤黒い球。
床で軽く跳ね返って小さな王冠の形になると、次の瞬間には潰れて歪な点になった。
「……ぅ……ぁ……」
息が苦しい。受話器から染み出る液体はどんどんどんどん勢いを増していく。しまいには、だばだばと溢れながらあたしの腕をつたって床へと滝を作り始めた。
なだれ落ちた液体がしぶきをあげて飛び散って、それがたまって赤黒く光る粘ついた海ができてる。白い壁に点々と飛び散るいびつな丸!!
あ……と……いた
あ……だ。あ……まだ……いる。
あっち……いるぞ。
あい……の……を……ぬいてやれ。
周囲のざわめきがだんだんはっきりとした人の声になって来た。みんなあたしを探してるみたい。
探してる?
敵だ! あたしを狙っている……っ!?
こっちだ。ここにいるぞ。
さっさとうちぬけ。こいつがさいごだ。
「……っひぃっ……」
頭を抱えて座り込みそうになったところで新たな声がした。
こっちだ! 早く退避しろ!!
ぐずぐずするな! 窓から脱出するんだ!!
間違いない。味方の声だ!だ!
あたしは迷わず彼らの声に従って、窓から外に飛び出した。
そのまま腰の高さまで伸び放題の草をかき分け、転がるように走り続ける。
もう日はすっかり落ちていたけど、代わりに上った満月がしらじらとあたりをてらしていて、かえってまぶしいくらい。月光を照り返して青白く光る草の葉が、風にさやさやと揺れながら何かささやいている。
ほら、ここに一人いた
まだ生き残りがいたか
よし、回り込んで追い詰めろ
ざわざわざわざわ
あたしを追い詰めてる奴らのさざめきが、まるで波のようにじわじわと押し寄せてくる。
あたしは安全な場所を求めて身をかがめながら草むらの中を駆けていくて行く。手足や頬の皮膚が葉っぱの縁で切れてひりりと痛むけど、そんなこと構ってなんかいられない。
ぱあん!
どこかで紙袋を叩きつぶしたような音がする。うんざりするほど聞きなれた、軽くて間の抜けた、それでいてあっさりと人の生命を刈り取る音。
こっちだ! 早く川岸に!!
走れ! 走れ! 走れ!!
急げ! 追いつかれるぞ!!
味方の声があたしを呼ぶ。川を渡ればあいつらは追って来られないみたい。
しらじらと明るい光の中、もつれる脚をなんとか動かして、草をかき分け走りに走る。
「ニーナ! こっちだよ!!」
どのくらい走り回っただろう。今度こそはっきり聞こえた。
「今だ! さあ、あたしのとこに飛び込んどいで!!」
力強い、マーシャの声。誰にも負けない、あたしたちの戦女神。
今行くよ、あんたがいてくれれば絶対に大丈夫。
迷うことなく、力いっぱい地面を蹴って、白い光の中へと飛び込む。
皓々と輝く満月の光を受けて、白く輝く川面に向かって。
刹那の後、激しく水面にたたきつけられ、もがくこともできずに沈んでいくあたしのかたわらに、寄り添う誰かの影。
「マーシャ……」
名前を呼ぼうとしたけれど、口からごぼりと泡が出るだけだ。
「これであんたもゆっくり眠れるね」
綺麗な顔に浮かんだ不敵な笑み。間違いない、あたしの大好きなマーシャ。
うん、あんたと一緒なら怖くない。だからずっと離れないで。
もう母さんや兄さんの顔色をうかがわなくていい。
あんたと一緒の夜の中、静かにずっと眠らせて。
「ああ、ずっと一緒だよ」
そしてあたしは夜の底へと沈んでいく。
暗い、静かな夜の奥底へ。
夜の底からの通信 歌川ピロシキ @PiroshikiUtagawa
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