第9話 僕らのうちに帰ろう①

 九月も半ばになると、朝晩はだいぶ涼しさを感じるようになってくる。昼間は夏の名残を感じるものの、うっかり薄着で出歩くと夜に後悔することが増えた。

 だから事務所を閉めた後、光留のマンションに向かう時は、上着を羽織って行く。外は意外と肌寒いし、食材を買うために立ち寄るスーパーは年中いつだって空気が冷えているからだ。

 今日のメニューはごろごろ野菜と鶏肉を入れたシチュー。夜は温かいものが嬉しい季節になってきた。

「シチューかぁ。楽しみだなぁ」

 光留は買い物袋を持って、にこにこと微笑みながら歩いて行く。別に伊都が袋を持ってもいいのだが、「三人前の夕食分の買い物は重いだろ」と気をつかって持ってくれるのだ。キッチンスタッフファースト。

「僕が作るものだから、ホワイトソースは普通に市販のルーを使いますけどね」

「そこがいいんだよ。僕ら、伊都くんの庶民メシの大ファンだから。ね、姉さん」

 伊都と光留の少し後を歩いていた華織が、「あら」と声をあげた。

「今更ね。美味しいと思ってなければ、キッチンにあげないわ」

「大絶賛されると、なんか作りづらいんですけど……」

 あまりのエンゲル係数の高さに慄いて作り始めた夕飯庶民メシの会は、思いのほか好評である。光留も華織もあまり好き嫌いはなく、何でも美味しいと言ってくれる。作りがいはあるが、本当に大丈夫なのかたまに少し不安になる。

「リクエストとかあったら、また作りますよ」

「ああ、じゃああれがいいなぁ。肉じゃが! 伊都くんが初めて僕らに作ってくれたやつ!」

「あれは感激したわね。具材を煮込むシンプルな料理なのに、味わい深い料理だったわ」

「肉じゃがですね」

 スマホのメモアプリに、肉じゃが、と打ち込む。

 なるべくかぶらないように作りたいメニューをメモしているのだ。肉じゃがの他には、豚の生姜焼き、親子丼、グラタン、コロッケなどがメモされている。庶民メシの会のおかげで、伊都の料理のレパートリーはだいぶ増えた。

「最近では、夜に張り込みが必要な浮気調査とかが入ると、うわー、ってなるんだよね。伊都くんの作りたてご飯が食べられないのかぁって」

「いや、待ってください。仕事はちゃんとしてください。僕のご飯は温め直して食べられるでしょう」

 ただでさえ、真淵探偵事務所は流行はやっているとは言い難い経営状況なのだ。三人だけの小さい事務所だから依頼を受けられる数自体が少ない。選り好みしていられるような状況ではない。

「もちろんやるよ、仕事は。でも、残念に思うのは俺の自由だろ。俺は伊都くんの作った出来立てご飯が食べたい」

「私は正義と一緒の時以外は、大体食べられるからいいんだけど」

「そりゃ姉さんは、そうかもしれないけど! ああ、うちにもっと夜間調査できる人がいればなぁ」

 華織の一言に、光留はぐちぐちと続ける。伊都は今のところ下っ端なので、簡単な事務仕事と調査の助手くらいしかしたことがない。でも、張り込みくらいは頑張ればできるかもしれない。

「僕が調査手伝いますか?」

「それはありがたいけど、結局伊都くんのご飯食べられない問題、解決しないね。伊都くん本人が調査で出払っちゃうからね」

 ダメだった。

 それにしても、ずいぶんと胃袋をつかんでしまったな、と思う。

 光留たちの住むマンションに着いて、エレベーターに乗り、三人で十階の角部屋に向かう。すでに伊都にとって日常となった光景。伊都は三人でいることに慣れすぎていた。

 だから、こんな日々が壊れるなんて、想像もしていなかった。



 その日伊都は、十九時に事務所を閉めた後、スーパーで軽く買い物をして、光留の家に向かった。ちなみに華織から夕食食費専用の財布を預かっているので、伊都が食費を払うことはない。真淵探偵事務所は給料とは別に三食がつく。ちなみに今でも朝昼は光留が調達してくるオシャレメシである。

 今日は華織が橋本とデートで不在、光留は出先から直接マンションに帰ると言っていた。だから伊都は一人で先にマンションに行って、料理を作っておくつもりだった。

 今日は大きめの椎茸が安く買えたので、挽肉を詰めてバター焼きにしよう。そんなことを考えながら、歩いていた。

 油断していたと言えば、そうかもしれない。

 自分は男だし、庶民だし、イケメンでもない一般人だから。唯一、他人と違うのはヤミイトを見る『ギフト』を持っているだけ。

 最近は、だいぶヤミイトを冷静に見られるようになってきていた。不意に街中で見かけても、以前のようにびくりとしたり、避けて歩いたりすることはなくなった。

 自分の『ギフト』を知った上で、受け入れてくれる人がいる。その事実が、伊都をすっかり安心させていた。それに、光留と出歩くと嫌でもヤミイトは寄ってくる。いい加減慣れた。

 元から、夜はほとんどヤミイトが見えない。街灯で照らされていても、漆黒のヤミイトは夜の暗がりに溶け込んでしまうからだ。

 だから、気づかなかった。すぐ後ろでヤミイトがうごめいていたことも、自分に悪意が向けられていることも。

「ん……?」

 不意に、誰かの気配がしたような気がして、振り向こうとした。だけど、できなかった。

 その後のことはよく覚えていない。急に後ろから口を塞がれ、ぐいっと引きずり倒される。手からスーパーの袋が落ちる音。

 悲鳴を上げる暇もなく引きずられて、路駐していたワゴン車に連れ込まれる。

「んんっ! んんんっ!」

 身をよじって抵抗を試みたが、無駄だった。数人がかりで押さえつけられ、口に猿ぐつわをかまされた。目にも布を巻かれて塞がれる。何も見えない。

「んんーーっ!」

「あっ、こら、暴れるな!」

 聞こえた声は、想像していたよりも若かったように思う。

「おい、さっさとそいつを黙らせろ!」

 もう一人は恐らくそれなりの年齢をした、男の声。焦っているような声色。振動でワゴン車が走り出したのがわかる。

「早くしろ!」

 男の苛立つような声。

 チクリとした痛みが腕に走った。何か注射された。直感的にそう思ったが、なす術もなかった。

 だんだん頭がぼうっとしてくる。近くで誰かが喋っていることはわかるのに、何も聞こえない。目の前は真っ暗なまま。

 ――どうしよう、光留さん……、華織さん……。

 脳裏を過ぎるのは、二人の姿。

 どうしてこんなことになったのだろう。

 何もわからないまま、伊都の意識はそこで途切れた。



 夢を見た。

 これは記憶の再生だ。夏ごろ、渚と湊の事件に一段落がついた時のこと。

 伊都は額を怪我していた。

 その頃はまだ抜糸が済んでなくて、額にはガーゼを当てられていた。光留が心配そうに伊都の前髪をかきあげて、指先がかすかにガーゼに触れた感触がして。

「傷痕が残っちゃうかもしれないね」

 心底申し訳なさそうな顔をする光留に、伊都は「そんなに深刻でもないですよ」と答えた。実際、伊都の額には薄く傷痕が残ってしまったのだが、さほど気にしてはいない。前髪で隠れる場所だし、傷痕が残ったからといって伊都の人生がどうにかなってしまうわけでもない。

 伊都にとっては、怪我のことよりもその後の話の方が重要だった。

 いなくなった母を、探したい。

 そう告白した伊都に、光留は嫌な顔ひとつせずにこう言ってくれた。

「一緒に探そう、伊都くんのお母さん」

 光留は微笑んで、伊都の手を取った。

 そのことが、伊都はとても嬉しくて。この手の温もりが、いつまででも続けばいいと思って。

 ああ、この人と出会えて良かったと、そう、思えて。


「光留さん……」

 自分の声で、目が覚めた。

 伊都は何もない部屋に寝かされていた。白い壁、白い天井、寝かされているベッドも、白いシーツがかけられている。何もかも白い。

「え、どこ……?」

 身体が上手く動かせない。頭も重い。起き上がろうとして、上手くいかなかった。手錠がかけられている。

「え? ……え?」

 混乱した。数秒遅れて、どうやら自分が池袋の路上で襲われて、この場所に連れ込まれたらしいことに、理解が追いついた。

「なんで、僕が?」

 人にさらわれる理由に心当たりなんてない。伊都は単なる探偵事務所の下っ端アルバイトで、恨みを買うようなことをした覚えもないし、お金を持っているわけでもない。

「あっ、まさか、光留さんたちに身代金を要求するつもりで?」

 それならありえる気がする。光留と華織は裕福だから。自分に人質の価値がどれくらいあるかは置いておくとして、光留と華織なら普通に身代金を払いそうで、ある意味怖い。

 何とか逃げたい。足は縛られていないようだ。頑張れば起きれる気がする。いや、起きろ。寝ている場合じゃない。だけど、なかなか身体がいうことをきかない。

 どれくらい時間が経っているのだろう。十九時が事務所の定時で、そこからスーパーで買い物をして光留のマンションへ行く途中だった。買い物にさほど時間はかかっていない。さらわれた時点では、恐らく十九時半くらいだったと思う。

 何か薬を打たれて眠らされた。恐らく麻酔か何かだったのだろう。麻酔が切れるまでどれくらいかかるのか、されたことがないのでわからないけれど、最低でも二、三時間はかかると思う。とすると、深夜二十三時くらいか。

 光留は伊都がマンションに来なかったことを、不思議に思っただろうか。心配しているかもしれない。光留は案外心配性だ。伊都が額の端を怪我して縫った時も、かなり心配していた。さすがに探し回ってはいないと思うけれど。

 美味しい夕飯を作って待っているはずだったのに、まさかこんな目に遭うとは。

 何とか動けるようになりたい。手を使えないと、起き上がるのに意外と苦労する。足を何とか持ち上げて、下げた反動で起き上がることに成功した。偉い。

 しかし、手錠は自力ではどうにもならない。もちろん、都合よく鍵が転がっているわけがない。

 この部屋には、高い位置に明かり取りの窓があるだけで、外の様子を知ることはできなかった。窓の奥は暗く、部屋は蛍光灯で照らされている。やはりまだ夜だ。

 壁に耳を当ててみる。かすかに、水音が聞こえる気がする。川か海か。壁は厚くなさそうだ。

「と、とにかく逃げないと……」

 ここがどこかもわからないのに。伊都の寝ていたベッドの近くに、ドアがあった。ドアも白く塗られている。白すぎて眩しい。

 ここにしか出口はないようだ。少しふらつくが、歩けないほどではない。

 意を決してドアに歩み寄った時、不意にカチリと音がした。それが鍵を開けた音だと気づく前に、ドアが開いた。

「あ、起きてましたか」

「え……」

 おにぎりとお茶の乗ったトレイを持った青年が、部屋に入ってきた。

 伊都は彼を知っている。

 老人のように真っ白な髪に、光のない黒い瞳。色白の肌。赤いピアスだけが、色彩を与えている。

 ――白羽彼方。

 池袋のボランティアサークル『フェザー』の代表。

「え、え? なんで……」

 混乱している。どうして白羽彼方がここにいるのだろう。

 二度ほど顔を合わせたことがあるが、本当に少しの間だけだった。

 しかし、状況的に考えると、彼方が伊都を誘拐してここに連れ込んだということになる。伊都を閉じ込めた部屋に、鍵を開けて入ってきたのだから。

 それに――彼方は、今までに他に見たことがないほどのヤミイトを秘めている。周囲を埋め尽くすヤミイトを見た時の、あの恐怖を思い出した。

 今、彼方はヤミイトを出してはいない。少なくとも伊都に悪意を向けてはいない。しかし油断できなかった。

 手錠をかけられたままの手をギュッと握る。いざとなったら体当たりしてやろうと身構えていると、彼方は苦笑してベッド脇に置かれたサイドテーブルに、おにぎりのトレイを乗せた。このサイドテーブルも白い。

「そんなに怯えないでくれませんか」

 彼方は、悪びれもせずにそう言った。誘拐されて変な薬打たれて手錠かけられて監禁されていたら、普通は怯える。

 伊都は威嚇いかくするように睨みつけたが、彼方は少しも気にしていない様子だった。サイドテーブルのおにぎりを指さす。

「君、晩ご飯食べてないでしょう? 手錠かけてても食べやすいように、おにぎりにしておきました」

「いらない気づかいですね……」

 気づかいするつもりがあるなら、手錠なんてかけないでほしい。

 拉致監禁してくる相手が出した食事。普通に食べたくない。しかし、夕飯を食べられなかった身体は正直で、ぐぅぅ、とお腹が情けない音を立てた。

「別に毒なんて入っていないですよ」

 彼方にくすくすと笑われて、伊都は少しだけムッとした。恥ずかしがるのも何だか悔しかったのだ。

「まぁ、食べたくないならいいんですけど、しばらく帰してあげられないから、食べておくことをおすすめしたいですね」

「いや、帰してくださいよ」

「そう、つれないことを言わないでください」

 伊都はどうやったら、彼方を出し抜いてドアの外に出られるか考えていた。拉致された時のことを考えると、仲間が他に何人かいるはずだ。あのドアを突破できても、その先で捕まる予感しかしない。

 光留に護身術を習っておけばよかった。伊都は今更ながらに後悔した。身に襲いかかる災難の数々を大体物理で解決できる、あの強さがほしい。

 彼方は薄く微笑みながら、ドアを背にもたれかかった。さりげなく逃げ場を塞がれた。

「私はね、君にとても興味があるんですよ、円居伊都くん」

「……っ!」

 息を呑んだ。どうして伊都の名前を知っているのだろう。前に会った時、光留は名乗っていたが、伊都は名乗らなかった。せいぜい虫歯を抜くのに怯えている、ちょっと残念な人という印象しか与えていないはずだ。光留だって、探偵事務所の名前は出していなかった。あの後、伊都は髪を切ったから、髪型も違う。

「どうして僕の名前を!」

「それは私の『ギフト』のおかげですね。君と同じです。私も『ギフト』を持っています」

 彼方は何でもないことのように、さらりと言った。まさか『ギフト』を持っていることも知られているなんて。伊都は動揺して、視線を部屋の中にさまよわせた。何もない、白い部屋。出口には彼方。出られない。

 絶句している伊都を尻目に、彼方は微笑みながら続ける。

「私の『ギフト』は、場所や物から残留思念を読み取ることができるんですよ。だから、君たちが『フェザー』から立ち去った後に、少し読み取らせていただきました。驚きましたよ。悪意を可視化する『ギフト』だなんて、素晴らしいではないですか」

「……っ!?」

 彼方には、伊都の持つ『ギフト』の能力まで知られているらしい。伊都は言葉もなく、立ち尽くしていた。一体、どこまで知られているのだろう。

「君が真淵探偵事務所で働き続けてくれて助かりました。別のところに行かれると、少し探すのが面倒でしたから」

 それなら、伊都は真淵探偵事務所に留まっていたことで、居場所を特定されたということなのか。

 彼方の『ギフト』で、残留思念がどこまで鮮明に読み取れるのかはわからない。少なくとも、彼方は伊都の生活パターンを把握していたはずだ。だから光留や華織と一緒ではない、一人の時を狙って拉致することができた。

「どうしてそこまでして僕を……」

 彼方はずっと微笑んでいる。黒々とした光のない瞳で、じっと伊都を見つめる。背筋に悪寒が走った。ヤミイトを出していないのに、こんなにも恐ろしい。人は理解できないものを恐れるという。その言説は、恐らく正しい。

「円居伊都くん。特別な『ギフト』を持つ君には、私の仲間になってほしいんです。君のその『ギフト』、私の元でならきっと活用することができますよ」

「は……?」

 人を拉致監禁しておいて、言うことが「仲間になれ」とはどういうことだろう。やはり、わけがわからない。怖い。

「ここはね、私が『ギフト』を持つ人々を集めるために買い取った家なんです。今は『フェザー』で集めた子たちに管理させていますけど。私は『ギフト』のおかげで、ちょっと得意なんですよ。家や友人関係に問題があって、救いを必要としている子を見つけるのがね。悩みをぴたりと言い当てて、相談に乗ってあげれば、結構簡単に心酔してくれるんです。信者はいた方がいいですよ。君にだってやればできます。私と同じ視える『ギフト』ですから」

 表向きは家出少年たちに居場所を与えているようなことを言っていたのに、利用するために篭絡していたのか。こんな自分勝手な人間に、人生の舵を握られている『フェザー』の少年たちが可哀想だ。伊都はぎり、と唇を噛んだ。血が出たらしい。鉄の味がする。

「ねえ、伊都くん」

 名前を呼ばれて、伊都はびくりと肩を震わせた。光留や華織に名前を呼ばれるのは嬉しいのに、この人には少しも呼ばれたくない。

 彼方がドアを離れた。伊都に近づいてくる。伊都は後退り、ベッドに当たる。ベッドの上をよじ登るようにして後退するが、すぐ壁に当たってそれ以上後ろにいけなくなった。

「私たち『ギフト』の持ち主たちは、あまりに冷遇されすぎていると思いませんか? 国による登録制度は、形ばかりで実態が伴っていません。有用な能力を持ちながら、好奇の目で見られたり、能力を信じてもらえなかったりします」

 彼方が顔を近づけてくる。黒々とした瞳が間近に迫って、伊都は思わず息を止めた。

 本能的な恐怖感が、戻ってきた。背筋を悪寒が駆け抜けていく。

 彼方の指が、伊都の前髪に触れる。そっとかきあげて、微かに残った傷痕に触れる。

「かわいそうに。痕が残ってしまっていますね。私だったら、君を危険な目になんてあわせないのに」

 声音には甘さを感じるくらいなのに、妙に感情を感じさせない声だった。

 触るな。そう言いたかった。喉の奥で悲鳴が絡まって、声にならない。怖い。気持ち悪い。目を逸らしたい。

「私は、『ギフト』を持っている人たちは、もっと優遇されるべきだと思います。『ギフト』は選ばれた人間にだけ与えられた能力です。『ギフト』を持つ人々が世の中を変えるべきなんです。だから伊都くんにはぜひ、協力してほしいんですよ」

 彼方がわずかに身を引いた。伊都は少しだけホッとして、彼方を睨みつけた。

「……誘拐犯の言うこと、聞くと思いますか?」

「それについては申し訳なかったとは思っていますよ。でも、普通に勧誘しても来てくれなさそうでしたから。君はずいぶんとあの探偵の男に懐いていましたからね。私としては、あんな男のところよりも、私と共に来るべきだと思いますけど」

 そこで伊都は、わずかに戸惑った。探偵の男。彼方は光留も『ギフト』持ちだということには気付いていないのだろうか。それとも、それを知ってあえて無視しているのか。どちらだろう。これだけ伊都のことを知っているなら、光留の『ギフト』も知っていそうなものなのに。

「伊都くん、君、お母さんも『ギフト』持ちだったんでしょう? 気になりますよね。どんな『ギフト』だったんですか?」

「……それも、残留思念から読み取ったんですか?」

「どうでしょうね。ここに連れてくる前に、私は結構君のことを調べてるんですよ。『ギフト』で見たこと以外もね」

 本当に、どこまで知っているのだろう。光留の『ギフト』の話が全く出てこないのが、逆に怖い。

 この瞬間まで、彼方はヤミイトを出していない。少なくとも今、彼方は伊都には悪意を向けていないのだ。本気で、伊都を仲間にしたいと思っているのだろうか。

 しかし、伊都の答えは決まっている。

「何があっても、僕は貴方の仲間になんてなりません」

 確かに『ギフト』を持っていることは、いいことばかりではない。少なくとも『ギフト』をひた隠しにしてきた伊都にとっては負担でしかなかった。

 だけど、『ギフト』優生思想を持つのは、何か違うと思うのだ。特別になりたいわけではない。普通の幸せが欲しいだけだ。伊都を受け入れてくれた光留のためになら、この『ギフト』を役立てたいと思ったけれど、彼方のためになんて使いたくない。

「こんなことしても、僕の意思は変わらない」

 不意に彼方の表情が、スッと抜け落ちた。微笑んでいた影すら見当たらない。怒っているわけでも悲しんでいるわけでもない、虚無。

「それじゃあ、やっぱり邪魔なあの探偵にはいなくなってもらわないといけませんね」

 次の瞬間、視界に黒い糸が溢れかえった。ヤミイト。

 背筋がゾワリとする。彼方の姿がヤミイトに覆われて見えなくなる。ヤミイトは増え続けて、部屋の壁を這って白い部屋を黒くする。

 初めて彼方にあった時、エレベーター前の狭いフロアを埋め尽くすほどのヤミイトが溢れたのを見た。その時も怖かった。

 しかし、今の方が数倍は怖い。瞬きもできない内に、どんどん視界がヤミイトに侵略されている。自分の手足にも絡みついて、闇の色に染まっていく。

「あ、ああ……!」

 怖い。助けて。

 叫び出したかった。なのに、かすれた悲鳴がかすかに漏れただけだった。

 視界はもはやほとんどがヤミイトに埋め尽くされていて、自分がどこにいるのかもわからない。自分自身の姿も見えない、完全な暗闇。

 もう彼方がどこにいるのかもわからない。彼がまだそこにいるのかも。

「いやだ……光留さん……」

 何も見えない世界で、脳裏に浮かんだのは光留の笑顔だった。

 伊都の『ギフト』を、初めて受け入れてくれた人。

 暗闇の中で、その記憶だけが伊都の心の中に光を灯してくれた。

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